江戸時代から伝わる杉樽がお出迎え

二宮町山西のヤマニ醤油は、この町に1軒だけある醤油醸造所。残念ながら2005年に閉じてしまったが、町内には峯尾醤油という老舗蔵も存在していた。江戸時代以降の二宮は、ちょっとした"醤油どころ"だったようだ。

そのヤマニ醤油を訪れると、醤油蔵元5代目の宮戸貞夫さんが迎えてくれた。屋外に設置されたタンクや煉瓦造りの煙突、昭和の香り漂う石造りの建物などは、ぼくがこの醸造所のまわりで遊んでいた子供のころから変わらない佇まい。しかし、昔はたしか「宮戸醤油」という看板が出ていたような……。

醤油類は入り口の脇にある事務所にて販売。少人数なら予約すれば見学もできる

「もともともはヤマニ醤油という名前で醤油作りをやっていたようですが、昭和21年(1946年)ごろに株式会社化して、社名を宮戸醤油としました。今から10年ほど前に息子のすすめもあって、伝統あるヤマニ醤油に戻したのです」と宮戸さんが教えてくれた。

宮戸家には段ボール20箱以上もの古文書が残されており、現在ではすべて神奈川県立公文書館に保存されている。その古文書によると、宮戸家の先祖が山西村(現在の二宮町山西)で暮らすようになったのは、約450年前のこと。その後、宮戸一族は山西村の庄屋となり、江戸時代の天保13年(1842年)にこの醤油蔵を開いたと考えられているそうだ。

宮戸さんに案内されて、ひんやりとした蔵の中を見せていただくと、高さ2m以上はありそうな江戸時代の木樽がいくつも並んでいた。ひとつの樽に仕込む量は35石。1石は100升なので、35石を一升瓶に換算すると3,500本分の醤油ということになる。

宙に浮かぶ江戸時代の杉樽は存在感たっぷり

醸造所の奥には、もう使われていない16個の杉樽が眠っていた

小さな蔵だからこそ作れる醤油がある

ヤマニ醤油の醸造は、蒸した大豆と煎った小麦を合わせたところに種麹(たねこうじ)を混ぜて麹をつくるところからスタートする。「麹を見れば、醤油の出来がわかってしまう。つまり、麹づくりがうまくいけば、いい醤油になるんです。麹の温度が30度前後を維持するように気を配りながら、3日3晩かけて麹を作ります」。

天然塩を地下水に溶かした食塩水とともに、出来上がった麹を杉の木樽へ入れる。麹が発酵してもろみとなったら、あとは週に1、2回ほど撹拌しながら、ゆっくりと時間をかけて熟成させる。

大手メーカーの一般的な醤油は3~6カ月の短期醸造で完成してしまうが、ヤマニ醤油の場合はその2倍、約1年3カ月もかかる。醸造のスピードをアップさせるような酵素や食品添加物の力を借りることもなく、あくまでも天然醸造を貫いているからだ。

「醤油メーカーは全国に1,500軒ほどありますが、大手メーカー5社が醤油シェアの大半を占めているのが現状。だからうちのような小さい蔵は、手作りにこだわって、昔ながらの醤油を醸造していくしかないんですよ」。

宮戸さんは御年74歳。二人三脚で歩んできた工場長の横田秀雄さんは79歳。横田さんは10代のころから、ここで働いているそうだが、後継者は今のところ、いない。

かつて熟成したもろみに圧力をかけて醤油を搾っていた装置

地魚の刺身はこの醤油で食べてほしい

ヤマニ醤油で最も高級な醤油は「丸大豆仕込み 湘南育ち 紫」、普段づかいの定番醤油は「風林火山」。「紫」の原料は、丸大豆と小麦、天然塩のみ。たっぷりと熟成した丸大豆のうまみと小麦の甘味が、ストレートに伝わってくるような醤油だ。

ちなみに、このふたつの醤油に使われている「湘南育ち」「風林火山」というフレーズは、どちらも商標登録済みだという。「湘南育ち」はわかるが、二宮町であえて「風林火山」とは、なぜ?

「昭和44年(1969年)に『天と地と』というNHKの大河ドラマがあって、その時に武田信玄が人気を呼んでいたので、それならば"風林火山"をおさえておこうと思ったんです」と宮戸さん。なるほど。

ヤマニ醤油は、地引き網漁が行われる梅沢海岸のすぐ近くにある。子供のころから梅沢に揚がった魚を食べて育ったという宮戸さんの「刺身に合う醤油を作りたかった」という思いが結実したのが、10年前から発売されている「刺身しょうゆ」だ。「まだ刺身しょうゆ自体が珍しかったので、いろいろと試行錯誤しながら開発しました」。

「刺身しょうゆ」はみりんと昆布だしを加えることで、ほんのりとやさしい甘口に仕上げられている。この風味にピッタリ合う地魚といったら、やっぱりアジか、それともサヨリかシラスか。

このほか、昆布のうまみ成分をプラスした低塩醤油は「昆布しょうゆ 湘南美人」と命名。商標登録から商品開発、ネーミングまで、老舗蔵元の当主はかなりのアイディアマンでもある。

(1列目右から)「刺身しょうゆ」と「ぽん酢」各630円、(2列目右から)「丸大豆仕込み 湘南育ち 紫」997円、「昆布しょうゆ 湘南美人」577円、「風林火山」294円

「年に1度、横浜のデパートで行われる催事に出品しているんですが、そこで購入して、うちの醤油を気に入ってくださった方が、わざわざ二宮まで買いに来てくださることがあるんです。そんなときは、醤油作りをしていて本当によかったなあ、と思いますね」。

日本酒や焼酎、味噌などもそうだが、古い醸造蔵の天井や梁、壁などには"蔵つき酵母"と呼ばれる天然酵母が棲みついているという。この酵母が蔵の味を決めると言われていて、酒蔵を建て替えて新しくしたら、以前と同じ味の日本酒が二度と作れなくなってしまった、という話も実際に耳にしたことがある。

今回見せていただいたヤマニ醤油の蔵にも、そんな蔵つき酵母がたくさん棲んでいて、人間の目には見えない魔法をかけているような気がした。じっくり丁寧に醸された醤油が、さらにおいしくなりますように、と。