プロもアマチュアも、"写真"に対して考える熱い時代があった。60-70年代のカメラ雑誌は現在より革新的で、写真に対するエネルギーに満ちていたと飯沢はいう。とくに先見の明を持つ編集者山岸章二がいた『カメラ毎日』は、数多くの若手写真家を紹介し、写真家は紙面で実験的な試みを展開していった。今回は編集者山岸章二について。(※文中敬称略)

山岸章二の登場による『カメラ毎日』の変化

硬派なカメラ雑誌として出発した『カメラ毎日』は、山岸章二という1人の男が編集部に配属されて方針が大きく変わるんだ。山岸はもともとカメラマンとして入社して、写真に興味があり編集能力も高かったから、57年くらいに同期の佐伯恪五郎に誘われて『カメラ毎日』編集部に来た。『カメラ毎日』は60年代前半から有名な写真家の作品ではなく、新しい写真家の作品を紹介するようになって、国外の写真家の動向も積極的にフォローしていった。これは山岸の意向が強く反映された結果だろうね。この頃の山岸の役割はすごく大きくなっていて、口絵ページの構成や台割を任されていた。山岸は紙面にすでに名の知れた写真家を出すのではなく、新しい作家を出し自分たちで育てていこうとしていたんだ。

山岸章二がその名を写真業界に知らしめたのは、『カメラ毎日』65年4月号に掲載された「舌出し天使」だね。「舌出し天使」は、構成:和田誠、詩:寺山修司、解説:草森紳一という豪華メンバーに、当時売り出し中で人気を集めていた立木義浩の写真を56ページも使って特集したものだった。しかも山岸は、編集長に企画を提出したところで反対されるだろうと、印刷所の人間と一部の編集部員だけで企画を進めて、印刷までしてしまったらしい。制作進行中の山岸は、企画がばれたときのためにつねに辞表をポケットに入れて持ち歩いていたという話が残っている。こんな伝説が残っているくらい、山岸という男はやりたいとことを実現する力も度胸もあった。編集長に内緒で印刷するなんて今では考えられない話だけど、そんなことができるくらい写真に熱い時代だったともいえるよね。

幸いなことに「舌出し天使」はとても好評で、大きな反響を呼んだ。それから山岸のやることは、時代の波に乗り、歯車が大きく回り始める。そして「舌出し天使」の成功に続いて、やはり日本デザインセンターで広告写真家としても活動していた高梨豊の「東京人」を36ページで掲載するなど、1人の作家を何10ページも使って特集するようになる。高梨の作品は都市のスナップに新たな可能性を切り拓いていった。つまり、カメラ雑誌を写真家の野心的な作品を発表する場として機能させたんだ。これは戦後のカメラ雑誌としては初の試みだった。

60年代後半の山岸の仕事を見みると、気鋭の広告写真家たちを中心に紹介していこうという意識がわかる。横須賀功光、立木義弘(アドセンター)、高梨豊(日本デザインセンター)、深瀬昌久(日本デザインセンター)。それと重要なのは篠山紀信(ライトパブリシティ)だね。篠山と『カメラ毎日』の関係は非常に密接で、「アド/バルーン」や、初期のヌード作品である「死の谷」など意欲的な作品をカメラ毎日に発表して、一躍写真家の寵児になる。「アド/バルーン」という連載は、広告写真という枠組みの中でできなかったことを広告写真でやって、批評するという試みなんだ。

その一方で、『プロヴォーク』(※1)に代表される「アレ・ブレ」(※2)の新しい映像表現や、コンポラ写真(※3)の新しい感覚の写真家たちも早い段階で紙面に紹介していた。森山大道、富山治夫、土田ヒロミ、秋山亮二など多くの写真家を世に送り出した山岸は、非常に写真を見る眼が良かったんだろうね。森山大道が『カメラ毎日』に「ヨコスカ」という作品を持ち込こみ、山岸に見せてその場で掲載が決まり、本格的な写真家デビューをしたというエピソードは有名だね。山岸は何十枚、何百枚っていう写真をものすごい速度で見て、ページ構成をすぐに組んでしまうらしい。そういう編集能力がすごく高かったんだろうね。森山に代表されるような新しい感覚の写真家を紙面でどんどん紹介していった功績はとても大きいよ。

『カメラ毎日』 1965年4月号 「舌だし天使」。写真:立木義浩、詩:寺山修司、解説:草森紳一、構成:和田誠という豪華メンバーを起用し、56ページという口絵ページを掲載した

『カメラ毎日』 1965年8月号 篠山紀信の連載「アド/バルーン」。篠山は『カメラ毎日』で意欲的な作品を発表し続け、写真界の寵児となっていく

『カメラ毎日』 1965年8月号。森山大道のデビュー作「ヨコスカ」。山岸はその場で10数枚のプリントを並び替え9ページの組写真を構成した

プロアマ問わず作品を紹介する投稿ページ「ALBUM」

山岸の仕事で見逃せないのは71年4月号から始まる「ALBUM」という常設企画だね。これはプロもアマチュアも関係なく、寄せられた作品から選ぶ投稿ページだった。普通、投稿コンテストは最後のほうにあるよね。しかし「ALBUM」は口絵ページを読者に提供してたんだ。つまりコンテストの投稿ページを口絵ページの中に入れてしまおうというアイディアなんだ。プロ・アマ問わず、1作品1-10数ページにわたり応募作品を紹介した。枚数やサイズなどの制限はなく、誰でも自由に応募することができた。作品紹介が目的だったので、等級づけや選評などせず、原稿料が支払われるシステムは、従来のコンテストに満足していなかった読者に好評だった。もちろん選者は山岸で、彼の写真を選ぶ視点がその選択にきちんと反映されていた。

「ALBUM」はある意味、山岸が新しい写真表現や作家、そして読者を育てていこうという、非常に大きな試みだったと思う。「ALBUM」から登場した写真家には、半沢克夫、百々俊二、渡辺克己、鬼海弘雄などがいる。実は僕も日大写真学科の学生時代に1回か2回出したことがある。もちろんダメだったね。でもあまりがっかりはしなかった。その頃の「ALBUM」のページのレベルはすごく高くて、学生が簡単に入賞するのは考えられなかった。いま現役で活動している写真家の人たちと話をしていると、若い頃に「ALBUM」に入賞したことが、写真家として活動するきっかけになったという人がけっこういる。いまの「写真新世紀」や「写真ひとつぼ展」のように、その頃は「ALBUM」が若手写真家の登竜門の役目を果たしていたということだね。

60-70年代というのは、従来の写真表現と違う新しい写真家がどんどん登場する時期で、写真界自体にも活気があった。写真に対するエネルギーが熱い時代と山岸が目指していた紙面作りがちょうど交差して、『カメラ毎日』は、全盛期を迎えていたんだ。山岸は70年代に入ると、社外でも編集者として広く活動するようになる。1971-72年に中央公論社から出版された「映像の現代」シリーズもその一つだね。一人一冊の写真家シリーズで、フィーチャーされたのは奈良原一高、植田正治、深瀬昌久、東松照明、佐藤明、立木義浩、石元泰博、横須賀功光、富山治夫、森山大道の10人。企画としてはあまり成功しなかったようだけれど、いまみるとすごい顔ぶれで、山岸章二の選択眼のよさがよくわかる。

1971年から始まる常設企画「ALBUM」は、プロアマ問わず読者の作品を口絵ページを掲載し、掲載された作品には原稿料が支払われた

※1:『プロヴォーク』 1968年、写真家の中平卓馬、高梨豊、美術評論家で写真も撮っていた多木浩二、詩人の岡田隆彦が集まって刊行された同人誌(第2号から森山大道が加わる)。第3号と写真評論『まずたしからしさの世界をすてろ』を刊行して、1970年に解散する

※2:「アレ・ブレ」 写真の粒子が荒れて、ブレたりボケたりしている写真表現。『プロヴォーク』の同人たちは、その手法を用いて写真そのものを根元的に解体しようとした。ビジュアルインパクトが強かったため、アマチュア界でも多くの模倣作品が氾濫した

※3:コンポラ写真 1966年にアメリカで開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」展の写真と、日本の若い写真家の写真の共通点を『カメラ毎日』が特集で取り上げ、「コンポラ写真」と呼ばれるようになる。横位置で淡々とした日常のさりげない瞬間を切り取った写真のこと

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。

まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)