このところ思うのは、なんて自分は気が利かないんだろうということだ。先日、仕事でとある集会を開いたときのことだ。私の知人ばかりが集まるその集会で、すこぶる大好きな若者がパラパラと雑誌をめくっていた。彼は、突然大きな声で「あ、佐野さんだ」と叫んだ。どなたでしょう佐野さん、と思いながらスルーしていたら、もう一度、「佐野さんだ!
」と言う。だから誰なのでしょう佐野さん、と思いながらわからないので返事をしなかったら、「××の佐野さんだ!」と、とうとう肩書きをつけたところで、ようやく気がついた。

その佐野さんは、筆者が取材してその雑誌に載せた人で、筆者とその若者の共通の知り合いだったのだ。その場に、佐野さんの知り合いはいなかった。つまり、おそらく彼は私になんかコメントしてほしかったのだろう。全然気がつかなくて、本当に悪かったよ。

とはいえ、私に返事してほしいなら、「あ、佐野さんだ。和久井さん、取材したんですか?」とか直接振ってくれたら、さすがにすんなり返事をしたと思う。そういう意味では、ちょっとその彼はコミュニケーションがうまくないのだ。その場にいたほかの若者なら、直接私に話しかけただろうし、すんなり話ができたに違いない。

が、そういう不器用なところが好き、と思っているのだから、女心は難解である。素直で無邪気な男とは、すんなりコミュニケーションがとれるのでトキメキはない。だけど、「ちょっとだけうまくいかなかった」というもどかしさが、ドキドキ感を生むようだ。

『伊賀のカバ丸』でも、同じようなシステムが構築されている。カバ丸は、思ったことを直截にベラベラ言い放つ素直な若者である。だけど恐らく読者に人気があったのは、目白沈寝さまとか、霧野疾風だろう。

沈寝さまは、体が弱いロン毛の君だ。金玉(きんぎょく)学園の憧れの君。しかし、大人しく勉強ができるだけでは、カバ丸のパワーに負けてしまう。彼は実は影ですんごいカリスマ性を発揮しているのであった。まだらの紐もビックリなムチ使いという特技もある。

筆者が子どものころ、この作品の中で一番好きだったのは、疾風だ。『霧野疾風伝』というスピンオフ作品が作られたことからも、彼が大いに人気があったことがわかる。なにしろ、アンニュイなのだ。子どものころ、カバ丸のじいさんに拾われて、カバ丸と一緒に厳しい忍者の修行を受ける。しかしその辛さに耐えかねて、カバ丸を騙しておとりにし、ひとり山から抜け出すのだ。

ずるがしこいんだけど、恩のある人にはとことん尽くす。山から下りた後に拾ってくれた(またか!)豪遊さんのために、せっせと働いている。なんというか『龍馬伝』の岡田以蔵みたいな(それにしてもこの以蔵はかわいい。テレビ見ながら痙攣起こしそうだ)。

疾風が豪遊さんのために働くことは、すなわちカバ丸と相対することになる、というジレンマ状況になるのだが、そこは完全に冷徹になり切らないところがまた読者萌えである。ちなみにこの、なんだかデビッド・ボウイに似ている豪遊さん、最後に「知らないわ」のひと言で、多くの読者の心を奪ったのではないか。彼は、悪事がばれて警察に捕まるとき、警察が疾風に「仲間なのか」と問うたとき、豪遊さんはこう言って白を切るのである。責任は全部自分で負う、という潔さ。カッコイイね。

というわけで、まとめると彼氏にするなら、自分に一途な直裁くん(カバ丸)がいいけれど、ドキドキ好きになるのは、影があったりひねくれてたりして、一筋縄ではいかない感じのアンニュイくんなのである。どちらを目指すかは、まあ持って生まれた性質を活かすってことで。
<『伊賀のカバ丸』編 FIN>