今回は前置きなしでいきなり本題から。これから取り上げる『少女漫画』(NHK金曜ドラマ『派遣のオスカル』原作)は、「主人公の環境×少女漫画への投影」という形のオムニバスだ。今回はそのなかの第1話、『ベルサイユのばら』を見てみたい。

主人公は、なんか大きそうな会社で働く派遣社員、34歳彼氏なし独身。このまま働き続けるとしても、派遣では先は見えている。今の低賃金で働き続けるか、いずれ首になるか。主人公は思う。「どうして正社員ばかり優遇されて、私たちは頑張っても認めてもらえないの?」。

仕事のできないガングロコギャル正社員が自分たちより高給をもらっていることに愕然とし、社長の跡取り息子は能なし。唯一心癒されるのが、漫画を読む時間だ。『ベルサイユのばら』を読んで感動にむせぶ。

オスカルは、フランス国民の自由を勝ち取るために戦った。それはそのまま70年代の状況に変換できる。貴族=男、平民=女だ。70年代、まだまだ女たちは、男が作る社会の中で(作者の池田理代子曰く、当時は女が社会進出するべきか否かを、男が議論していたのだそうだ)、自立し自由に生きられる社会を切望し、戦っていたのだ。

この作品で、新卒時に就職難で正社員雇用されなかった主人公は、一生懸命仕事をこなし、正社員への登用を願う。男が作る社会で戦う女という姿はそのまま、正社員が作る会社で戦う派遣社員という形が当てはまる。つまり、『ベルばら』でいう貴族は70年代の男であり作中の正社員、『ベルばら』でいう平民は70年代の女であり作中の派遣社員なのだ(作中でも、『ベルばら』の三部会を参照に、「僧侶=役員」「貴族=正社員」「平民=派遣」と置き換えている)。30年以上経った今でも、女は相変わらず戦っているのだ。涙が出そう。

しかしだからこそ、『ベルばら』はいつまで経っても色あせることなく、女に支持され続けるのだろう。作中でシングルマザーの派遣社員が言う。「別れた夫は、悪い人じゃなかったけれど、弱い人だった。私が『ベルばら』で好きなのは、マリー・アントワネットが幽閉されたときに『男にならねば』と言うシーン」。頼りにならない夫・国王の代わりに、アントワネットが家族を守る決意をするシーンだ。

「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」とは、有名なアントワネットの台詞だが、これはフィクションの可能性が高いのだそうだ(出典: 確かツヴァイクの本)。彼女は特別聡明ではなかったけれども、馬鹿でもなかった。若いうちに絶大な権力を与えられ、無為に過ごしてしまったものの、革命が勃発して、自分の過ちに気がつく。

多くの女がそうだ。若いうちは、若いというだけで男から勝手にある種の権力を与えられ、無為に過ごす。しかし気がついてみれば、すでに若くはなくキャリアもない。与えられていた権力はほかの女へと移り、突然、現実を突きつけられるのだ。お前はこれからどうするのだ、男を生涯の生き甲斐とするのか、キャリアを生き甲斐とするのか? と。そして大抵は、そのどちらも持っていないのだ。主人公は「私にはアンドレもフェルゼンも現れないままだ」と言う。

かといって男と付き合っても「びっくりするほどつまらなかったの」。同僚のシングルマザーは深く頷く。そりゃそうだ。30年以上も戦い続けてきた女にとって、与えられた権利に疑問を持たずに安穏と暮らし、逆境になっても戦えない男など、『キャンディ・キャンディ』でバラを愛でてるだけのアンソニーなのだ。

派遣のシステムというのは、派遣社員-派遣会社、派遣会社-派遣先企業で契約が結ばれる。通常、社員が直接企業と雇用契約を結ぶところに、派遣会社が仲介を行っている形だ。それはイコール、派遣社員が自分のスキルや未来をすべて派遣会社に預けているということだ。派遣会社には、人の人生を預かる責任がある。そして去年、"派遣切り"というのが社会的に問題になった。そのとき、派遣会社は何をしていたのだろう。本来なら派遣会社は、派遣社員と派遣先企業の仲を取り持つ立場にある。解雇が不当なら、派遣社員に代わって戦うべきは派遣会社なのだ。正社員登用してほしいという主人公の要求は、主人公が上司にするのではなく、派遣会社が派遣先企業にするべきだと思う。

女が戦って、得るものってなんだろう。それは次回の『ガラスの仮面』編で少し見てみよう。
<つづく>