ここ最近、国内の犯罪ニュースなどを見るにつけ、思うことがある。犯罪の内容を読むと、「自分の存在を認められたい」「人に影響を及ぼせる人間でありたい」と叫んでいるように思えるのだ。これらは人として、恐らく誰もが望むことだ。「影響力」「存在価値」を実感する方法は、例えば一生懸命働いて、上司や客、クライアントに感謝されることかもしれないし、文章、音楽、絵画などで人を感動させることかもしれない。福祉やボランティアもそうだろう。

けれども、こうしたいわゆる「善」の方向は、本当にまっすぐにものが見えていないと、見返りを得ることが難しい。こうして、道を見つけ出せない人たちの行動が、とても残念な形に発展してしまったのではないかと思う。

と、ちょっと真面目な感じになったところで最近聞いたシモネタを書きたいのだが、なぜだか私の知り合いは、「コラムに書くなよ」と念を押してから大変面白いシモの話を始めるのである。非常にフラストレーションだ。まあ婉曲に書くと、犯罪に至らずとも女をどう扱いたいかによって、そいつが普段どれだけ自己存在意義を感じているかが見えるぞという話だ。うん。

というわけで『花より男子』。主人公・つくしと、くっつくのくっつかないのとごちゃごちゃやる相手の道明寺は、登場当初、手のつけられない暴れん坊である。身体の一部分が暴れん坊の男子は多そうだが、彼の場合は全身で大暴れ。学校に多額の寄付金をしている(親が、だがな)からといって、生徒を好きなように殴る蹴る、いびる、襲うのヤリ放題。おっと、やり放題。

しかし、つくしが道明寺にたてつくようになると、「こんな女は初めてだ」とかいっちゃって、以来一筋につくしを追いかけ回すのだ。そうそう、暴れん坊の浮気性では、ヲトメの心は奪えない。暴れん坊だけど、一筋だから読者は道明寺を許すのだ。つまり一途だったら、中身は割となんでも許してあげられるのが、ヲトメ心というもの。「これだ」と思ったら、ひたすら追うがよい、男性諸君。それにしても浮気性なのはむしろつくしのほうで、道明寺と花沢類の間でフーラフーラしちゃって、もう読んでて腹が立って腹が立って。

そして、曲がったことが大嫌いなつくしに影響されてか、愛に目覚めたのか、道明寺はだんだんと暴れなくなっていく。ドラマでは特に「牧野のおかげで司(道明寺)はだいぶ丸くなった」などと何度も仲間に言わせている。これは、ヲトメ萌えどころか人間萌えする絶好の設定である。「自分のおかげで変わった」または「救われた」なんて、言われてみたいじゃないですか。それこそ、自分の他人への影響力を実感できる瞬間だ。誰かにいいことを言って感謝されたくて、うさんくさいこといっぱい言っちゃった経験、ある人多いのでは?

そして道明寺を変えた最大の理由が、つくしの正義感だ。間違っていることは間違っていると、身を挺して意見する。それまでF4の権力が恐ろしくて、誰も彼らや赤札に逆らわなかったのだが、つくしは堂々と宣戦布告する。大抵の人は長いものには巻かれ、いじめは黙認、いじめられっ子には近づかず、マジョリティは正しい意見だと思い込む。確たる自分の意見なんか持ってる人間なんか、ものすごく少数しかいない。

自分個人の意見を持ち、なおかつそれが認められて男に一途に惚れられ、世間の憧れ、F4に一目置かれる。乱暴男を「変えた」なんて言われて、貧乏人が通常経験できないようなゴージャスな体験をたくさんできる。どれだけの女がつくしに憧れたんだろう。これだけ人気のお話だから、なんかうさんくせえ"つくしもどき"をうじゃうじゃと世に排出したような危惧感もありつつ、次回はズバリ、萌えシーンについて。
<つづく>