数年前、スペインに留学していた時のこと。語学の授業でスペイン人の先生から、「大学の卒業論文は何を書いたの?」と聞かれた。なんとも趣味の論文みたいだけど、私は『少女漫画の女性像』というタイトルで、社会学的に少女漫画を解説したのだった。

で、「70年代、女性の社会進出がまだまだなされていなかったころ、当時の女性心理をそのまま反映し、少女漫画には悲壮な話が多かった」てなことを、園児のお喋りのようなスペイン語で説明した。そうしたら先生が、「わかるわかる! だって『キャンディ・キャンディ』も悲しい話だったもんね! アンソニーは落馬して死んじゃうしさ!」と叫んだ。遠い異国で、外国人からアンソニーなんて言葉を聞けるなんて。アンソニー……白馬、落馬、スイートキャンディ……。涙が出るかと思ったよ。

というわけで、『キャンディ・キャンディ』。改めて読んでみたけど、ああ面白かった。昔の漫画だけあって、今ほど表現が過激じゃないんだけど、ぽろりぽろりと名言があって、大人でも読み応え十分。子供のころにはわからなかった話の意味が、ようやく理解できたりして。そこで今回気づいた、大きなテーマをまずは取り上げてみましょうか。題して、「なぜアンソニーは死ななければならなかったのか」。

その前に少し前振りを。いがらしゆみこが後年に描いた『ジョージィ!』は、原作者は違えども、骨子はほぼキャンディと同じである。複数の男、孤児でモテモテお転婆主人公(「おてんば」って、漢字で書くとすげえ字面だな)、そして王子様。キャンディの王子様はアンソニーだったが、ジョージィの王子様はロエル。こいつがほんとうに、嗚呼ほんとうに、使えない奴だった……。結局ジョージィは、病に倒れたとはいえ、何の役にも立たないロエルを泣く泣く見限り、強くてまっすぐなアーサーに傾く。

伊藤理佐の漫画で、こんな話があった。風邪で寝ている主人公の元へ、気になっている男性(まあ王子様だな)から電話が。「今からお見舞いに行っていいですか?」と言うではないか。急いでシャワーを浴びて、部屋の掃除をして、着替えてパジャマにカーディガンを羽織って紅茶かなんか上品にすすりつつ、「なにやってんの、私?」とか思いながら、ブルブル震えて彼が来るのを待っている。ようやくお待ちかねの彼が来てみると、彼の両手には大きなバラの花束が。主人公は心の中でつぶやく、「いま、一番役に立たないものをもってきやがって……」。

王子様は優しげでかっこいいけど、親が金持ちなだけの能なしだ。自分が恵まれているから、他人の痛みがわからないし、打たれ弱い。看病されても感謝知らずで、看病しても役立たず。主人公が脳みそに花の咲いた少女のころはそれでも問題ないけれど、大人になってくるとそうはいかない。なぜなら、少女漫画の基本は「主人公の成長」だからだ。

人が成長するには、逆境、挫折、苦労が必要だ。その中でもがき苦しみ、悩んで心の中の解決策を探していき、結果、世間と対等に渡り合っていくための強い精神力が備わる。そうなると、頭に霞がかかってるようなおぼっちゃまくん王子様とは、どうにも釣り合いが取れなくなってくるのだ。さんざん甘い言葉でジョージィを酔わせたロエルだが、実際は耳くそくらい役に立たなかった。

キャンディは、孤児院で育った孤児だ。ラガンの使用人として引き取られ、前途は真っ暗。苦労は目に見えている。引き替え、のんきにバラの栽培なんかやってるアンソニーは、親が不在がちってだけで、大した悩みもない。キャンディが苦労をものにして成長していくには、あまりに釣り合わない相手なのだ。いずれ大きなひずみがやってきたに違いない。ロエルとジョージィのように。

アンソニーとの関係を綺麗なままで終わらせるには、いなくなってもらうしかない。その手っ取り早くて効果的な方法が、劇的に死んじゃうことだったのだ。おかげでキャンディの心の中には、いつでもホクホク笑っている、のん気なアンソニーだけが残り、上等な思い出として取っておけることとなった。そうして無能者が美しく去った後、次にあてがわれたのが、たくましく生きていくキャディにふさわしい、「生きる」強さを持ったテリーだ。こうして強く引かれ合った2人は逆境を乗り越え、お互いの苦労を埋めるように、ともに成長していくのである。
<つづく>