北京オリンピックがいよいよ8月8日から開催される。だからというわけではないが、私はここ数年、北京についての歴史的写真をいろいろ集めている。オークションで落札することも多いのだが、先年、1920年代に中国・漢口に駐在していたドイツの外交官の末裔から流れたと思われる写真を何枚か落札した。その中には、北京紫禁城の様子や万里の長城近くを行く蒸気機関車の写真もあった。このドイツ外交官コレクションのほかにも、私の手元には100年前の北京駅の写真、絵葉書等がなぜかある。現在の北京の模様はさまざまなメディアで報道されるだろうから、この連載ではちょっと趣向を凝らして、約100年前の北京周辺の鉄道を紹介してみよう。

列強が建設した中国の鉄道

100年前というと、1908年(明治41年)。日本とロシアが戦った日露戦争(1904-05年)からしばらく経った頃である。中国では清朝末期の光緒33年~34年にあたる(太陰暦のため暦は西暦と一致しない)。最後の皇帝である宣統帝(愛新覚羅溥儀)が即位するのが1909年なので、映画で言えば、「ラストエンペラー」の最初のパートぐらいだと考えてほしい。清朝は1912年に滅ぶため、この時期の中国は動乱の時期であった。中国の鉄道は、列強が自らの権益のために建設したものが多く、複雑である。また、路線が伸びるにしたがって名前を変えることが多く、把握しづらい。

中国分割を表すフランスの絵葉書。中国の鉄道網もそれぞれの列強の思惑で建設された

北京を中心とした鉄道網として、まずは「京奉線」(全線開通1907年)が挙げられる。これは、唐山と胥各庄(現豊南)間の唐胥鉄路が元になったもので、北京→天津→唐山→山海関→奉天を結び、北京駅に達したのは1901年である。最初に設けられた北京駅は、紫禁城の正陽門(前門)の東側にあり、前門駅(正陽門駅、のちに北京東駅)と呼ばれた。

一方、北京から長江沿岸の漢口を結ぶ「京漢線」は1905年に完成し、北京駅は1901年に同じく前門近くに設けられたが、こちらは、前門(正陽門)の西側に設けられた。同じく前門駅と呼ばれ、のちに北京西駅と改称されている。

また、北京近郊の豊台から北京城西側を通り、西直門、沙河を経て張家口に至る「京張線」が1909年に開通し、中華民国建国(1912年)後の1915年には、北京城壁を西直門駅から時計まわりにまわって京奉線の東便門駅に至る「環状線」が着工され、翌年開業した。その他に、天津から南京の揚子江対岸の年浦口まで結ぶ「津浦線」や、ドイツ租借地である膠州湾の青島から済南まで結ぶ「膠済線」(山東鉄道・1904年開通)が有名である。

現在、北京→天津→浦口→南京→上海を結ぶ「京滬線」は、北京→天津の「京奉線」、天津→浦口の「津浦線」、南京→上海の「滬寧線」の区間からなっている。一方、「京奉線」は、ハルビン、満州里まで伸びて「京哈線」に、「京漢線」は香港の九龍まで延伸し「京九線」となった。また、19世紀から20世紀初頭にかけて、多くの鉄道が列強諸国の手によって敷設されたため、同じ都市の駅でも北京や済南のように、駅がつながらず複数ある場合も多い。

北京紫禁城の門の近くに、2つの駅があった

北京紫禁城の内城の正門は正陽門(前門)である。おおざっぱに言うと、天安門の手前にある門である。ところで、私がむかし悩んでいたのは、同じ正陽門といってもまったく違う楼が写っている写真があるということ。「これは、なんなんだ」と思っていたが、門の前に「箭楼(せんろう)」と呼ばれる門のような大きな建物が前に張り出して、お互いに半円形に城壁で結ばれているということなのだ。そのため、箭楼の前から撮った写真と、箭楼を入っ、本物の門を写した写真とはでは、建物が違うのである。

前門と天安門の東側には東交民巷と呼ばれる地区があり、第二次世界 大戦前まで、列強の大使館、兵営、銀行などがあった。図は東交民巷に設けられたドイツ系銀行の建物

ちなみに箭楼は外敵を防ぐための軍事的な建物で、張り出している半円形の城壁部分を「瓮城(おうじょう)」という。瓮城部分は1922年に取り壊されたので、現在では2つの門として独立しているように見える。なお、箭楼は正陽門だけでなく、紫禁城の徳勝門、朝陽門などにもあった。また、箭楼が設けられていないが瓮城がある門もあり、これは紫禁城に限ったものではない。

朝陽門駅。近代の鉄道が城をぶったぎった様子がわかる

ところで、北京の2つの前門駅は、正陽門とその箭楼の間の東西に設けられていた。京奉線前門駅の写真を見てみると、初期は簡易な駅舎しかなく、プラットホームは紫禁城の城壁沿いにあり、さらには幾重もの引き込み線があってまるで貨物駅のようだ。その後、1912年に塔のある立派な駅舎が建てられた。しかし、どうも京漢線前門駅とは最後まで別の駅だったようだ。

開業当時の北京駅(北京東駅)。1900年代初頭の絵葉書から。駅の入口前には馬車がいっぱい

塔と丸いドームが特徴の北京駅(北京東駅)

こちらは北京西駅。左上に貼られているのは、清朝時代の切手

北京近郊の駅か?

万里の長城までの汽車はマレー式

最初の話に戻るが、その外交官コレクションの中には朝陽門駅と、万里の長城近くの鉄道の写真があったので、紹介しておこう。この外交官は、北京の西直門駅(現在の北京北駅)から京張線を使って万里の長城の近くの駅に行ったようなのだが、列車を率いる蒸気機関車は、シリンダーが複数あるマレー式のようなのだ。マレー式は勾配に強く、日本でも御殿場線で使われたほど。中国でも使用されているとは、思わなかった。

これはマレー式なのではないか。シリンダーが複数ある蒸気機関車。上のほうに長城が見える

一方、朝陽門駅。環状線の駅であるため、この写真自体は1915年以降のものだが、他の写真を見て類推すると、おそらく1920年代のものだろう。朝陽門も正陽門と同じく箭楼があるのだが、瓮城が取り壊されてそこを環状線が通っている。線路も複線のようだ。しかしこの環状線、あまりにも人気がなかったそうで、第二次世界大戦後、廃止されたそうである。

北京駅の名前は時代によって異なるので、呼称は記事中のには限らない
参考文献
小野田滋「北京市内に保存された京奉鉄路の信号所と環状鉄路の『火車券洞』」(『鉄道ジャーナル』2005年1月号)
竹内実『北京』文春文庫(1999年)