20世紀に置き去りにしたもの

少し前の新聞記事で、トレンディドラマのプロデューサーが「ドラマをつくりづらくなった」と語っていました。理由は「携帯電話」です。

恋愛ドラマで視聴者を釘付けにするシチエーションが「すれ違い」で、例えば「駅」での待ち合わせで、東口か西口か、はたまた改札かホームかの「すれ違い」により出会えない二人のもどかしさに視聴者は釘付けになるのです。ところが「携帯電話」がすれ違いを絶滅しました。「もっし~? いまどこ」。互いの居場所を即座に確認でき、逢えない時間が育てた愛は、歴史の教科書に記載される日を待つばかりです。

携帯電話の便利さを否定するものではありません。しかし、便利さと同時に失うものもあります。ワープロやパソコンの普及により大人達は「漢字」を忘れてしまい、私などはうっかりしているとカタカナも怪しくなります。移動手段の発達は便利なことですが、むかし団塊の世代の上司が呟いた台詞を思い出します。

「大阪出張といえばかつては泊まりだった」。

彼は出張の度に遊んだ大阪の夜を懐かしみ、日帰り出張を恨みます。

日進月歩のその先の未来

地方公務員を辞め起業し、幾つかの業種を経て現在は食品スーパーを営むU社長は団塊の世代。日本の技術革新と共に人生を歩んできました。彼にとっては進化や発展はすべて善であり、失い無くなるものがあっても、振り返ることはノスタルジーによる感傷論だと切り捨てます。実際、U社長の商売でも物流網の発達が、鮮度が良く、より安い商品の仕入れを実現しましたし、電話からFAX、そして電子メールと受発注処理の高速化は技術革新の賜です。

広告も技術革新によるメリットの大きい分野です。かつて、「チラシ」を作る際の版下(印刷するための完成原稿)は「手書き」あるいは「写植」で作成し、誤字や脱字は「手作業」で直し、大幅な変更はイチからの作り直しとなりました。ちなみに、「写植」とは「写真植字」の略で、一文字ずつ打ち出した文字を集めて作り上げる方法です。

これがDTPに置き換わります。すべての作業をパソコンで完了でき、文字の変更もワープロ同様に一瞬で完了します。これにより版下作りの期間が劇的に短縮されました。「仕入れ価格」を即座にチラシに反映することができるようになったと、U社長は技術革新に目を細めます。

機械の身体を手に入れるまで

「ホームページ」にも着手します。こちらは文字通り「即座」に公開できます。仕入れたその場で販売できることは、流通業者にとっては夢のような話です。商品が売れるまでの期間は、仕入れに用いた資本(金)がロックされており、さらに倉庫の管理・維持費も発生し負担となります。つまり、品物が倉庫に入った瞬間に売れるのが理想で、入庫と同時に「商品情報」を掲載することで客に知らしめることができるホームページは最適なツールです。

U社長にDTPを教えたのは、旧来の「手作業」でチラシを作っていたところに、飛び込み営業でやってきた広告代理店の営業マンでした。以来、広告全般を委ね二人三脚で事業を拡大してきました。そこで、ホームページもここに発注します。

U社長のリクエストは、入庫があった商品の即時掲載です。対して広告代理店は「見積額の改定」を要求します。リクエストを実現するためには専属スタッフの拡充が不可欠で、一般的なホームページの制作費だけでは更新費用が賄えず、足が出てしまうことから値上げを申し込んだのです。

そして何かが失われていく

値上げに対しての回答はこうです。

「技術革新が進んでいるのだから企業努力で吸収すべし」

技術革新0.2です。技術革新が進んでも「人間」の部分に限界が訪れます。例えば、データベースと連動する形での公開ならば、予算内での対応が可能でした。しかし、U社長自身が広告に「注文(リクエスト)」をだし、トップページのデザインもその都度、更新しろというのです。技術が進んだが故に人が関わる部分は限界に近づいており、これを企業努力で補うにはスタッフに過重労働を強いるしかありません。そして、広告代理店は手を引きました。

広告代理店の「企業努力」の足りなさにU社長は憤慨し、別の広告代理店に発注を切り替えます。そして、広告効果が目に見えて減少していきました。販促企画の劣化が要因です。新しい代理店はU社長の「指示通り」に作業するだけで、企画を提供しません。客を楽しませる「企画」を考えていたのは、以前の広告代理店だったのです。

U社長自身は「瞬時の更新」こそが客のニーズに応えると疑っていませんが、「世界一うるさい消費者」と言われる日本人にとって、買い物は「楽しみ」のひとつで、その為の「工夫(企画)」が広告やホームページには不可欠なのです。これも「人」の介在が不可欠な作業で、技術革新で解決できるものではありません。

U社長は団塊の世代。技術革新が諸問題を解決してきた時代を生きた経験が「人」を過小評価し、技術革新の先に待っていた「歩留まりする社会」を受け入れることができないでいます。

先日、姪の誕生日を祝う11年前の映像を発見しました。親族が談笑する約1時間の映像のなかで「携帯電話」を見る人はひとりとしていません。どんなときでもケータイをチェックし、時には目の前の人を置き去りにして通話やメールをする光景に違和感を覚えなくなりましたが、ケータイという技術革新が、時間と空間を共有する、その場にいる人間を軽んじるようにしたとしたら・・・皮肉な話です。

エンタープライズ1.0への箴言


「人は機械ではないという当たり前」