「情報社会」と聞くと、それがすでに始まっていると考えるか、これからが本番と考えるかはともかくとして、ほとんどの人が過去のことではなく近未来のこと、つまり今日までの「工業社会」の次に来る社会だと考えている。だが、本当にそうなのか? 今回と次回は「情報社会」という言葉の起源から、そのことについて考えてみたい。

ダニエル・ベルが指摘した「知識」中心の「脱工業社会」

わが国では、ITに関係する術語のほとんどが、英語を日本語に訳したり、日本流に略したりしたものがほとんどなので、「情報社会」という言葉も、「Information Society」の訳語だと思っている方が多いのではないだろうか。だが、「情報社会」という言葉を最初に発案したのは、日本人だった。わが国における文化人類学の草分け的存在で、大阪万博の跡地に国立民族学博物館を設立した梅棹忠夫である。

梅棹が「情報社会」と名づけるまでは、工業社会の後に来るのは「脱工業化社会」と称されていた。「脱工業化社会(原語では「Post-Industrial Society」)」という術語をつくったのは、アメリカの社会学者、ダニエル・ベルだ。

「脱工業化社会」が唱えられた1960年代には、大気汚染、公害や廃棄物処理など、工業社会をゆるがす諸問題が、欧米先進国で意識され始めていた。日本では1970年代初頭のオイルショックまでは本気で考える人は少なかったが、欧米では、工業社会の生産を支えている石油が限りのある資源であることも、すでに認識されつつあったのだ。

ベルらは、工業社会の「大量生産+大量消費」のシステムをこのまま続けていけば、21世紀半ばには、上記の諸問題が地球規模で問題化するため、必ず行き詰まり、人類は次の社会への転換を余儀なくされると考えた。

そして、その社会で中心となるのは、工業社会の生産・消費財である「工業製品」ではなく、資源を浪費せず、公害も大気汚染も起こさない「知識」だとベルは言ったのである。さらに、その「知識」の生産・流通・消費によって成立する社会を「脱工業社会」と名付けたのだった。

梅棹忠夫が発案した「情報産業社会」という言葉

だが、ベルは、「工業社会」を「脱」したあとの社会の姿を、それ以上は具体的には示していない。その頃の人々が疑いもなく求めていた自動車や家電製品など工業製品を陵駕するものは、まだ何も見えていなかったためだろう。

そうした新しい社会を、より具体的に「情報産業」というキーワードで示したのが、日本の文化人類学者、梅棹忠夫だった。梅棹はそれを「情報産業社会」という名で示した。

この「情報産業社会論」が1963年に最初に発表されたのが、大阪の朝日放送(ABC)が出版した「放送朝日」というPR雑誌だったことからもわかるように、彼の言う「情報産業」とは、コンピュータや携帯電話関連の産業のことではなくマスコミ、とくに当時日本人の生活の中心になっていたテレビのことだった。

パソコンがこの世に登場するのは、まだそれから25年も後であり、当時はIBMなどが開発していた大型電子計算機の時代だ。だが、それすら国家機関や大企業、大学などだけが所有するもので、誰も(おそらく当のIBMの技術者自身も)将来、その機械が机にのるほど小型化し、家庭にも入るなどとは、考えていなかった。

ましてや、それらが地球規模で結ばれて、おたがいに通信しあうなどと「妄想」する人は、皆無だった。だから、梅棹の言う「情報産業社会」とは、テレビをはじめとするマスコミと、全国の家庭に固定電話が、普及していく社会のことだったのだ。

それでも、工業社会の限界を目の当たりにしていた欧米の学者が明確にし得なかった、次に来るべき社会のイメージを、まだ工業による国の発展を信じて疑わなかった日本人のなかから、梅棹が「情報産業」と断言できたのはなぜだろうか。

小松左京らも参加、「情報社会」の概念固める

その理由は、彼が、生物学から文化人類学に移行してきた研究者で、いわゆる"歴史"を知らなかったからだ。梅棹は、生物の発生学とのアナロジーで、人類社会の「進化」をとらえた。

生物では、精子が卵子に受精した受精卵は卵割して、細胞が増殖し、その結果、さまざまな組織に分化して、個体の各器官に成長していく。これを「発生」という。その際、最初に分化する「内胚葉」は将来の「消化器官」をつくる。次に分化してくる「中胚葉」は、「筋肉」や「骨格」「血管」をつくることになる。そして、最後に分化する「外胚葉」が「脳」や「神経系」を身体に張りめぐらせる。

これを社会に置きかえ、「狩猟採集社会」を「未分化の受精卵」とすれば、「内胚葉充実期」にあたるのは、食糧生産を中心とする「農耕社会」だ。次の「中胚葉充実期」は、(社会の「筋肉」「骨格」「血管」という意味で)工場、鉄道、道路が中心となる「工業社会」だ。

だとすれば、その次に来るはずの「外胚葉充実期」にあたるのは、社会の「脳」、「神経系」を形成する放送、マスコミ、通信ネットワークが中心になる時代、つまり「情報産業社会」というのが、梅棹のアナロジーだった。

その後1970年の大阪万博に向けて、梅棹を中心にプロジェクトチームがつくられ、そのコンセプトワークに参画した未来学者の林雄二郎、社会学者の加藤秀俊、SF作家の小松左京らによって「情報社会」の概念は固まっていった。

1970年に開かれた大阪万博では、世界で始めてポケットベル(ケータイメールの元祖、ポケベル! )の社会実験が行われるなど、来るべき「情報社会」の予兆が徐々に現れた。こうしたことで、日本発の「情報社会」という言葉は、世界で「Information Society」として認知されるようになる。

それでもまだ、今日のパソコンと高速通信網で結ばれた「情報社会」が具体的に提案されるのは、アメリカの未来学者、アルビン・トフラーによる「第三の波」の登場を待たなければならなかった。その10年後、1980年のことである。

(敬称略)


執筆者プロフィール
奥野 卓司(おくの たくじ)
1950年京都市生まれ。京都工芸繊維大学大学院修了。学術博士。米国イリノイ大学客員准教授、甲南大学文学部教授など経て、1997年から関西学院大学大学院社会学研究科教授。2008年から国際日本文化研究センター客員教授。専攻は情報人類学。ヒトと動物の関係学会副会長、社団法人私立大学情報教育協会理事。著書に『ジャパンクールと江戸文化』(岩波書店)、『日本発イット革命・・・アジアに広がるジャパンクール』(岩波書店)、『人間・動物・機械・・・テクノアニミズム』(角川新書)など。訳書に『ビル・ゲイツ』(翔泳社)、『ジェスチュア』(筑摩学芸文庫)、『イヌの心がわかる本』(朝日文庫)などがある。