11日1日に召集された特別国会で安倍晋三氏が首相に指名され、第4次安倍内閣がスタートしました。第4次の内閣とは、同じ首相が国会で4度目の首相指名を受けて組閣した内閣を指す呼び名で、戦後では吉田内閣(第5次まで)に次ぐ多さとなります。

安倍首相は全閣僚を再任し、今後はアベノミクスの再強化を柱とする経済政策や憲法改正論議、北朝鮮情勢への対応などを進めていくことになります。その一方で、総選挙で「小池劇場」が不発に終わった希望の党や参議院議員が取り残された格好となった民進党など野党の混乱が続いています。

失速の本当の原因は「排除」発言にあらず

ではなぜ与党が圧勝し野党が敗北したのでしょうか。選挙から約2週間経ちましたが、改めて検証してみましょう。その最大の原因として多くのメディアが挙げているのが、小池都知事の「排除」発言(9月29日)と野党の乱立です。

しかし本当にそうでしょうか。よく考えれば、政党というものは同じ考えの人が集まるものであって、憲法や安全保障といった国の在り方について基本的考えの違う人を受け入れないのは当然のことです。むしろ問題は、旧民進党の衆議院議員の側にあったといえます。

民進党は9月28日の両院議員総会で前原代表の「希望の党への合流」との方針を全会一致で了承しましたが、基本的考え方の違いを無視して丸ごと合流しようとしたことに無理があったのです。

そのうえ、民進党から希望の党に合流した人たちは、「公約を順守すること」との1項目を含む「政策協定書」に署名して希望の党の公認をもらったのですが、その協定書に署名した段階では希望の党の公約はまだできていなかったのです。つまり、公認をもらうために政策は白紙委任したというべき行動だったわけです。そうした「政策より選挙」との姿勢、希望の党に行くか行かないかと右往左往する姿が有権者の失望を買ったとみるべきでしょう。

同じ野党でも立憲民主党は「筋を通した」と評価され、票を大きく伸ばしました。しかしその立憲民主党の人たちも本当に筋を通したといえるかについては、疑問符がつきます。なぜなら、枝野代表をはじめ同党から立候補した民進党出身者も当初は前述の通り、前原代表の「希望の党への合流」方針に賛成していたからです。小池氏とは明らかに政治的立場が違うにもかかわらず、小池人気に乗ろうとしたわけです。それが小池氏の排除発言によって、自分は希望の党の公認がもらえない見通しとなったため、立憲民主党に参加したという経過なのです。

こうしてみると、小池氏の最大の失敗は「排除」発言より以前に、「民進党を丸ごと合流」という方向を見せたことにあったと言えます。小池氏と前原氏がどのような話し合いをしてどこまで合意していたのかはわかりませんが、少なくともなるべく多くの民進党議員を合流させたいとの考えはあったのでしょう。そのため小池氏が当初表明していた「改革保守」という基本路線があいまいになったことは否定できません。

希望の党では選挙後、民進党出身の議員から小池代表の責任を問う声が出ているほか、憲法改正や安保法制に反対といった従来の民進党路線を主張する議員まで出るありさまです。ある議員はテレビのインタビューで「希望の党を民進党の色に染めていく」と発言していました。これでは、小池氏が新党を立ち上げた意味がなくなってしまいかねない状態です。 小池氏は引き続き希望の党の代表を続けるそうですが、同時に「自分は都政に専念する。国政のことは国会議員にゆだねる」としています。同党は小池氏と並んで国会議員の代表となる共同代表を11月10日に選出する予定で、実質的にはそこで選ばれる共同代表を中心に運営していくことになるでしょう。

しかし内部の結束が保てるかどうか、小池氏の立場はどうなるかなど、不安定要素が多く、「希望の党は長く続かないのではないか」「再分裂がありうる」などの見方が多いのが実情です。

総合的な経済政策がない野党

それもこれも、基本理念や政策がはっきりしないことが原因です。今回の選挙でも選挙後も、希望の党から共産党まで野党が口をそろえるのは「安倍1強を倒す」という言葉です。

しかし、それでは安倍内閣に代わってどのような日本を作るのかという明確なビジョンや政策が示されていません。それがないから、多くの野党議員が選挙目当てで右往左往することになるわけです。やはり、政策がカギなのです。

これを経済政策でみると、一段とはっきりします。例えば、希望の党は「原発ゼロ」「消費税引き上げ凍結」などを打ち出し、「アベノミクスに代わってユリノミクス」と謳っていました。しかし原発や消費税などは、重要テーマではありますが、それをもって今後の日本経済の全体像を示したことにはなりません。「ユリノミクス」も単なるスローガン、ないしは語呂合わせの域を出ないものにとどまっていました。

他の野党もアベノミクスを批判していましたが、日本経済をどのように回復させるのか、そのような日本経済の姿を描くのかといった総合的な経済政策はほとんど示していません。しかもアベノミクス批判の内容を見ると「アベノミクスで景気が良くなったというが実感がない」「アベノミクスによって格差は拡大した」など、ステレオタイプの批判、あるいは事実に基づかない批判が多いことが残念なところです。

25年前の教訓 - 政策なき野合と政治抗争は日本経済にマイナス

ところで、本連載の前号で「小池氏が25年前と同じように大勝負に出た」と書きましたが、結果は25年前のようにはうまくいきませんでした。しかし25年前から始まった当時の政権交代には、見落とされがちな重要な教訓があります。

小池氏が「政界再編の起爆剤になる」と言って参院選に初出馬した翌年の1993年の総選挙で、続々と誕生した新党をはじめ野党各党派は「政権交代」を掲げて勝利し、非自民の8党派による細川連立内閣が誕生しました。しかし連立与党は、自民党出身がほとんどの新生党から、公明党、民社党、社会党までおよび、政策の違いは明らかでした。舞台裏では小沢氏と反小沢派の対立が激化して、翌94年に細川首相が退陣、その後を継いだ羽田内閣では小沢氏らが連立与党の一角を担っていた社会党と新党さきがけ外しを図ろうとして羽田内閣はわずか2か月で瓦解するという結果に終わりました。

こうして永田町が治改革を叫びながら政治抗争に明け暮れていた中で、当時の日本経済はバブル崩壊によって悪化が続いていたにもかかわらず、有効な経済政策が採られなかったことが大きな問題点です。細川内閣は総額6兆円の景気対策を打ち出しましたが、規模も内容も十分なものではありませんでした。政治抗争の影響で94年度の予算編成が年明けの2月にずれ込み、国会審議も遅れたため、予算成立が年度内をはるかに超えて6月になるという状態でした。こうしたことがバブル崩壊後の経済低迷をさらに長期化させる要因にもなったのでした。

希望の党が本気で政権交代を狙うのなら、この教訓からしっかり学ぶことが重要です。また旧民主党政権時代の失敗を繰り返さないことも当然のことです。

政権交代は「目的」ではなく、あくまでも政策を実現するための「手段」なのです。希望の党をはじめ野党は、どのような日本を作るのか、日本経済の全体像をどのようにめざすのか、明確な政策を提示することが必要です。

総選挙を受けて召集された特別国会は野党の要求で39日間という比較的長い会期になったのですから、野党がそうした政策を示して政府・与党と論戦を展開することを期待したいものです。

執筆者プロフィール : 岡田 晃(おかだ あきら)

1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。

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