【コラム】

ちょこっとイイブック

66 癒し系スプラッタ・ホラー - 「栞と紙魚子 殺戮詩集」

一井おん  [2006/08/25]

こんにちは。今年も会社の夏休みを取れていない、イチイです。去年は仕事場で「夏休み、どうされるんですか?」と聞かれるたびに、内心(どーもこーもねーよッ!)と反抗期の中学生のようにめんどくさがっていたのですが、今年は「スキを見て休めるといいですねぇ」などと笑って返せるようになりました。「夏休みどうする」ネタは、社会人のコミュニケーションの潤滑油だということに気づいたのです。大人になったなぁ。

誰かが沖縄に行ったとかサイパンに行ったとか聞くたびに、胸の奥の「旅に出たい衝動」が暴発しそうになるのですが、そこは理性で何とかおさえて。トリップするのは脳内だけで十分十分(それじゃヤバいって)。

トリップといえば、前回のコラムで家のカギをなくしてマンガ喫茶で寝たという話を書きましたが、その後にちょっとした"日常からの小旅行"をしました。

マンガ喫茶の利用時間は5時間ぽっきりだったので、深夜1時に入ったイチイは6時には出ないといけなかったのです。延長するという手もありましたが、料金は15分100円ときわめてお高いので断念。早朝の土曜日という、ある意味もっとも人気のない時間に路頭に迷うことになってしまったのです。

さて、大家さんの家に行くまでどうするか。早朝からオープンしているカフェチェーンで本でも読むか? それとも、原稿のネタでも考えるか(すでにこの体験がネタになっている)。しかし、イチイが心身ともに欲していたのは、「睡眠」でした。マンガ喫茶で変な寝方をしてしまったので、眠りの仕切り直しをしたかったのです。ふと思いついたのは「山手線1周」。東京の唯一の環状路線、山手線。その中でぐるぐるとしながら寝たり本を読んだりしていれば、2~3時間つぶせるだろうともくろみ、実行したのでした。

そういえば数年前、ソウルに1人旅に行ったときも、することもなく、かといって安いゲストハウスで他の旅行者と世間話をするのもおっくうだったので、2号線という環状路線に逃げ込んだことがありました。この2号線は、東京の山手線よりも規模が大きく、1周するだけで2時間ほど時間をつぶせるとうステキな路線です。安全な異国の都市で、まるで故郷に帰ったような、安らかな気分でうたたねをすることができた……というのが、今でもソウルのいい思い出として印象に残っています。こちらは、トリップしているはずなのに日常を感じたという、ちょっと珍しい経験でした。

日常と非日常のほどよいミックス感。ホラーなのにほろりとしたり、くすっと笑ったり。そんな微妙なバランスが素晴らしいコミックスがあります。諸星大二郎氏の「栞と紙魚子」というシリーズです。

ご存じでしょうか、諸星大二郎氏という少々マニアックな漫画家を。嫌いな人はそのストーリーの暗さ、独特のヘタウマな画風から拒否反応を示しますが、ファンならば泣いて喜ぶという魔力のある作品を放つ人です。「暗黒神話」や「妖怪ハンター」など、神話や妖怪をからめた重いテーマの伝奇ものがメインなのですが、この「栞と紙魚子」というホラーシリーズだけは、珍しく少女マンガベースのタッチで、ユーモアやシュールさが随所に織り込まれています。

好奇心いっぱいの栞(しおり)、メガネっ子で理知的な紙魚子(しみこ)。今流行りの「オシャレ魔女 ラブ and ベリー」みたいな女の子コンビですね(内容は全っ然違うけど)。その2人が、サザエさんの舞台にもなりそうな、一見何の変哲もない町内で遭遇する超常体験を、1話完結で描いています。

この作品で目が離せないのは、明らかに異常な事態なのに、まるで日常と変わらない素のリアクションをしている町の住民達です。たとえば、登場人物の中の怪奇小説作家・段一知の奥さんは、顔がものすごく大きい。子供の身長くらいあるのではないかと思うくらい大きいのです。そして登場する時は、いつも壁のすき間から顔を出すだけ。お茶を出すときは、長いウナギのような手がニュルリと出てきます。……このような明らかにおかしい人(おそらく人ではないのでしょうが)がいるのに、栞と紙魚子は「今やたらと大きい顔が見えなかった?」「外国人なんですって」「外国ってどこの外国よ」とあっさり流してしまいます。そのおかしさは「伝染るんです」すら彷彿とさせます。ちなみにこの奥さんは、作者が気に入ったのか意外と読者人気が高いのか、ほぼレギュラーメンバーとなり、誰も気にしない存在になっていきます。

今回フォーカスしたい「殺戮詩集」は、なんと段一知氏に迫る不倫の危機がメイン。新鋭女流詩人で「殺戮詩集」の著者・菱田きとらは、段一知を愛し、ストーカー状態になります。「先生…私と…私と…一緒に臨死体験をしましょうっ!」と迫るきとらに、さすがに化け物を妻に持つ男もたじたじ。そこへ、例の顔の大きな奥さんが、顔で壁をバキバキと破壊しながら登場し、茶番劇が始まるのです。ホラーのはずなのに昼ドラマみたいで、何だか笑えるでしょう。

このコミックを読んだ人は、日常がいかにあやういバランスの上に成り立っているかということを実感するはず。非日常はどこにでもあるのです。自分の頭の中にも、気づかずにいた何気ない出来事にも。納涼という意味では少しパワー不足ですが、日常からのリフレッシュという意味では、十分に「夏休み」的な作品だといえるでしょう。

「栞と紙魚子 殺戮詩集」

著者:諸星大二郎
出版社:朝日ソノラマ
価格:420円
データ形式:独自形式(専用ソフトウェア使用)
購入サイト:eBookJapan

    写真で見るニュース

    特設サイトの情報

    人気記事

    一覧

    イチオシ記事

    新着記事

    本音ランキング

    特別企画

    一覧