"枚挙に暇がない"というのでしょうか……。ここ数年、世界で"リスク"と呼ばれる事象が頻発していると感じているのは筆者だけではないと思います。

北朝鮮の政情不安・同国による他国へのミサイルによる攻撃リスク、周辺国である中国・韓国・ロシア等のパワーバランスの不安定化への懸念、昨年欧米で顕在化した民族主義や保護主義の台頭、長引く欧州の信用不安および欧州での民族主義が台頭する可能性をはらむ複数の選挙の開催、中東や欧州・東南アジア等で頻発するISの活動、原油価格が高値から半値程度まで下落したことによる産油国の財政不安、隣接諸国による南シナ海の覇権争い、いよいよ顕在化の様相を呈し始めたとの指摘もある日本の政治リスク、先進国の高齢化、さらに言えば天災・異常気象、もっと広く言えば局地的な水や食料不足、疫病の蔓延(パンデミック)……。

頭の中の引き出しを少し開けただけでも、国内外のさまざまな"リスク"が思い起こされます。

影響範囲、持続する期間の長さ、インパクトの大きさ等は異なりますが、一言で「リスクの発生=有事」とした場合、わたしたちはほぼ毎日、何かしらの有事と対峙していることになると思います。

「有事の金買い」という言葉があります。何らかの有事が発生した際に、その有事の発生がきっかけとなって、資金の逃避先という側面を持つと言われる金(ゴールド)に注目が集まることを表している言葉です。

われわれがほぼ毎日目にするリスク(有事)、そして「有事の金買い」ということから考えれば、金には毎日のように注目が集まり、その分だけ価格が上昇しているのではないか? という想像が働くのは自然であるように思います。

以下はここ約5年間の金価格の推移です(※世界の主要な金市場であるドルで取引されている金の価格)。

図:金価格の推移 2012年1月から2017年6月単位:ドル/トロイオンス
出所:シカゴマーカンタイル取引所のデータを基に筆者作成

グラフのとおり、金価格は下落しています。2017年6月は2012年9月の高値に比べておよそ30%下落していることがわかります。

2012年といえば、ISが台頭し始めるおよそ2年前、イギリス国民がEU離脱を選択していなければトランプ氏が大統領にもなっていない、北朝鮮では前年の金正日氏の没後、三男の金正恩氏をリーダーとする新体制が発足したばかりで現在のようなミサイル開発が顕著になる前、南シナ海の領有問題が大きくなり始めたとされる2015年の3年前、K-POPブームの余韻に浸る日本では同年に発足した第2次安倍内閣の下「アベノミクス」が始まったばかり……。

このように考えれば、筆者の感覚的な話で恐縮ですが、もちろん2012年においても大きなリスク(有事)はありましたが、リスクを警戒する温度感はどちらかといえば2017年の方が高いように思われます。

「有事の金買い」が、リスク(有事)の発生に伴い金(ゴールド)に注目が集まること、であるのであれば、金価格は2012年に比べて2017年の方が高い、という連想が働きますが、実際はそうなっていない、ということであります。

以下は1977年から1982年のおよそ5年間の金価格(上記と同じドルで取引されている金)の推移です。

図:金価格の推移 1977年1月から1982年1月 単位:ドル/トロイオンス
出所:シカゴマーカンタイル取引所のデータを基に筆者作成

1978年後半から金価格が急騰していることがわかります。この当時のリスク(有事)を挙げてみると、第二次石油危機(1978年末)、イラン革命(1979年1月)、アメリカ大使館人質事件(1979年11月)、ソ連のアフガン侵攻(1979年12月24日)、イラン・イラク戦争(1980年9月)…… おおむねこのようなものになると思われます。

ざっくりですが、以下のように金価格の急騰が確認された1980年前後と、現在について、「リスク(有事)」という面で比較をしてみたいと思います。

■図:リスク(有事)について比較 出所:筆者作成
1980年前後 2017年ごろ
1定期間に継続しているリスクの数 右記より少ない 左記より多い
リスクの種類 右記より少ない 左記より多い
1件あたりの影響期間 右記より短い 左記より長い
1件あたりのインパクト 甚大 さまざま
金価格 急騰 緩やかに下落

2017年ごろは、1件あたりのリスク(有事)のインパクトこそ"さまざま"とみられるものの、数・種類・影響期間については、1980年前後と比べて、多い・長い、となると思われます。

リスクが同時多発的に発生しているにも関わらず、ここ数年間の金価格が1980年前後のように急騰していないのは「リスクに関わる情報が持つサプライズ感の低下」が要因であると筆者は考えています。

サプライズ感の低下の背景には以下のような変化が挙げられると考えられます。キーワードは「大衆のリスク慣れ」と「リスク発生時の対応技術向上・リスク回避手段の多角化」、「代替候補の登場」であると考えられます。

■数の多さによる大衆のリスク慣れ

目の当りにするリスク(有事)の数・種類が多いため、情報の受け手がリスク慣れしてしまっており、それらをリスク(有事)と認識しづらくなっていることが考えられる。

■ITの発展による大衆のリスク慣れ

リスク慣れの要因は、リスク(有事)の数と種類の多さだけでなく、それを伝える情報技術の発展も考えられる。IT(information technology)という言葉が多用され始めたのは、米国でITバブルが起きていた2000年前後ごろと言われているが、このころからの急速なITの発展が、ほぼ24時間瞬時に、われわれ個人においても手のひらで世界中の情報を集めることを可能にした。これにより、1980年前後にあったとみられる取引関係者間、個人間、あるいは取引関係者・個人間の情報格差が格段に下がり、情報が持つ重みが低下したものとみられる。これが、特にリスク(有事)に関わる情報のサプライズ感の低下・大衆のリスク慣れの一因になっているように思われる。

■リスク発生時の対応技術向上・リスク回避手段の多角化

1980年前後に比べ、上述のITに加えて医療技術等の発展に伴い、リスク(有事)が発生した場合、それらの技術を用いてリカバリし得る範囲が拡大しているように思われる。また、例えば天候に起因するリスク(有事)の発生を高度な技術を用いてあらかじめ予測して可能な限り回避するという動きもある模様。これらは実際のリスク(有事)発生時において、リスク(有事)をサプライズと感じづらくさせ、警戒への温度感の低下・大衆のリスク慣れの一因となっていると考えられる。

■代替候補の登場

仮想通貨のひとつであるビットコイン(Bitcoin)の価格が2017年の4月ごろから急騰している。既存通貨に不安がある時に注目が集まる、世界中のどこでもお金として利用できる、など、それまでの金(ゴールド)のお株を奪うかの如く、存在感を増してきている。このような金の代替候補の登場もまた、リスク(有事)が多発している中で金への注目が低下する要因になっていると考えられる。

かつてリスク(有事)は、情報の受け手に強いサプライズ感を与え、その情報の受け手を含む取引関係者等の金市場への短期的な参入を促し、その結果、金価格が短期的に急騰した、ということなのだと考えられます。

現在は、リスク慣れ、技術向上、代替手段の登場等、さまざまな変化が生じたことでリスクに関わる情報にサプライズ感が伴わなくなり、その結果、金市場ではリスク(有事)が発生しても金価格が以前のように短期的に急騰することがなくなったのだと思われます。

もう有事では金価格は急騰しないのか…… という疑問が湧いてきますが、その疑問へのヒントを以下の金価格の長期的なグラフに見ることができます。

図:金価格の推移 1977年1月から2017年6月 単位:ドル/トロイオンス
出所:シカゴマーカンタイル取引所のデータを基に筆者作成

上図から考えられることは、リスク(有事)は、価格急騰の要因ではなく、価格維持の要因になっているのではないか? つまり現在は、リスク(有事)は長期的な金価格の水準を維持する受け皿の要因となって金市場に影響を及ぼしているのではないか? ということです。

大衆のリスクへの認識の変化、現在のリスクへの認識、現在の認識が金価格へ与える影響等は以下とおりであると考えております。

  • 1980年前後に比べて現在のわれわれは、多種多様なリスクに絶えずさらされているため、リスクに関わる情報に対してさほどサプライズを感じなくなっている(リスク慣れしている)可能性がある。それが一因となり、1980年前後に見られたような、リスク(有事)が短期的な価格急騰の要因になる、という構図が当てはまらなくなっていると考えられる。

  • とはいえ、サプライズと意に介さないながらも、われわれは決してリスク(有事)に盲目的になっているわけではなく、リスク(有事)が多様化して断続的に世界中に存在していることを認識している。

  • 多様化しながら断続的に発生するリスク(有事)の存在への意識が、目立って顕在化することがないものの"根強く底流する大衆の不安心理"へと発展し、それが中長期的な価格の下支えの要因となって金市場で作用していると考えられる。

  • 価格の急騰は、1980年前後の金市場が物語るように瞬間的で際立って大きい"情報の受け手が強くサプライズと感じる"リスクの発生が引き起こす現象であると考えられる一方、中長期的な価格の下支えは、長期的で多種多様なリスクの存在への意識が醸成する"根強く底流する大衆の不安心理"が引き起こす現象であると考えられる。

  • 有事の金市場へ与える影響が変化したと考えれば、現在の有事は、(あまりにも度を越した有事を除き)価格の下支え要因になることはあっても、以前のように価格を短期的に急騰させる要因にはならないと考える。

タイトルの問い「なぜこれだけの有事でも金価格は急騰しないのか!?」への答えは、有事の発生がもたらす金価格への影響が、1980年前後の有事発生時にみられたような注目が集まることで発生する短期的な価格上昇、いわゆる"有事の金買い"から、多様化しながら断続的に有事が発生する中で醸成される、根強く底流する大衆の不安心理によってもたらされる長期的な金価格の下支え要因と目される"有事の金価格支え"に様変わりしたため、であると筆者は考えています。

執筆者プロフィール : 吉田 哲(さとる)

楽天証券経済研究所 コモディティアナリスト。テクニカルアナリスト。大学卒業後から、コモディティ業界に入る。2007年から、コモディティアナリストとして、セミナーや投資情報提供業務を担当。2015年2月から、楽天証券経済研究所 コモディティアナリストに就任。海外・国内のコモディティ銘柄の個別分析や、株式・通貨とコモディティの関連に着目した分析が得意。楽天証券ホームページにて「週刊コモディティマーケット」を配信中。