今回のテーマは「仲直り」だ。

子供の頃は、親兄弟、友だち間と、意外にバトルバトルの北斗の拳みたいな世界観で暮らしていたような気がするが、大人になるとケンカ自体あまりしないものである。結婚の際、わが親に現夫があいさつに来たのだが、その時母親が「こいつわがままですよ」と夫に伝えたぐらいなので、少なくとも私は親にとって非常にわがままな存在だったようだ。

そんな私に対し、母親はあまり怒るタイプの人ではなかったが、それでも私が度を越しすぎている時は流石に怒った。一番記憶に残っているのは小学生ぐらいの時、母親と相撲をとりまくったことである。

原因は忘れた。しかし、私がいつものわがままで泣きながら母親につかみかかり続けたので、ついには母親に投げ飛ばされたのである。断っておくが虐待ではない。私が戦意喪失状態ならそうかもしれないが、私も「やってやろうじゃねえか」であった。畳部屋でお互い本気でぶつかりあい続けたのである。

最終的に疲れて、何で怒っていたのかさえ忘れてしまったのだが、最後母親が「またやろう」と言ったのは強烈に覚えている。少年漫画でよくある「川原でケンカして仲直り」は本当にあることなのだ。思えば子供の頃はケンカもよくしたが、仲直りもちゃんとできていたような気がする。

しかし、大人になるとそうはいかない。川原で殴りあうとポリスを呼ばれるし、どちらかに罪名がついたりする。暴力を伴わなかったとしても、さわやかさの代わりに、遺恨と後腐れのみが残ったりする。

大人のケンカはリスキーなのだ。付き合いたてのカップルなら引っぱたいた後に抱きしめてキスすれば解決かもしれないが、だんだんそうもいかなくなる。「次は家庭裁判所で会おう」という事態にもなりうる。

家族間でもそうなのだから、他人同士のケンカなどもっての他だ。ご立腹中の取引先の偉い人を抱きしめてキスしたら、また新しい問題が起きる。むしろ、キスで解決できるケンカ以外はするなと言った方がいいだろう。

よって、私はできるだけ誰ともケンカしないように生きている。こう言った文章も適当に書いているように見えるかもしれないが、一貫して「誰にも怒られたくない」というコンセプトのもとで書いている。だからいつも、「何か言っているようで何も言っていない」ものができ上がる上に、なおかつ怒られたりするのだ。

だから私も、できるだけ人に怒らないようにしている。私が遠慮なく殺意を表明できるのは担当だけだ。あれは法律上、殺害予告などしても罪にならない生きものだからだ。

ケンカもそうだが、「人に対し怒る」という行為も同じぐらいリスクが高い。相手が小さめの石(大きめだと怖い)ならいくら罵詈雑言を浴びせてもいいが、人だとそれ以上のモノが返ってくる恐れがある。そんな怖いことができるはずがない。

また、冷静に怒れる自信が全くない。怒りという感情ほど冷静に出さなければいけないものはない。いくら言っていることが正しくても、怒りの余り両鼻から出血しっぱなしの人の話は誰だってまともに聞きたくない。

普段、怒りなれていないため、「今あたい怒っている」という事実に大興奮、感情大失禁して、「喜怒哀楽を同時に繰り出して泣いてる人」になるに決まっている。そして冷静になった時、恥ずかしくなるに決まっている。自ら怒りが恥になり、それに己が殺されるのである。

だが、決して私は温厚なタイプというわけではい。むしろ導火線が0.002mmしかない。ただ火薬自体が湿っているだけだ。

心の中では常に「不悪口、不悪口」言ってるし、たまに独り言として口に出ちゃっている時すらある。ただそれを他人に伝えないだけだ。それをどうしても伝えたい時は、まず自分の怒りを整理する。自分が何にどのように怒っていて、いかに自分に正義があるか、貴様が謝るべきなのかを明らかにする。時にはマジで文章化する。そして、相手の反論に対する反論まで考える。

大体そこまですると怒りが収まっているのである。なので私は書くだけ書いて、出してない怒りのメールがたくさんある。送信ボタンまで押せたのはほぼない。子供の時は相撲で仲直りができた。しかし、大人になると一人相撲をして自分を落ち着かせるしかできないのである。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。
デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。