【コラム】

東京バイツ

139 おでんといえば、串刺しのコンニャク、ガンモ、チクワを思い出す人の原体験

    福冨忠和  [2003/08/06]

    ちょうど『鉄腕アトム』に関する雑誌連載が終わったところだが、つくづく思うのは、マンガやアニメが人間の記憶に長く残り、かつ強く印象づけられるかということだ。なにしろアトムについては、読み返したマンガ作品も、テレビアニメ版のものも、たぶん最初にそれにふれたのは何十年も前のことのはずだが、今になっても、ほとんど読んだり見たりした記憶があったのだ。

    もちろん同じようなことは、小説や映画などほかのフィクションでもあるだろうけど、ここまで鮮明かといえば、そうでもないような気がする。印象としては子どもの頃の特定の時期の体験や記憶は鮮明に覚えている、という一般論を超えている。マンガやアニメがシンプルな線画で描かれているせいなのか、その分もっと強く刷り込まれている気がするのだ。

    たとえば、先日、打ち合わせに行く途中、表参道の駅で偶然同年代の知人に会った。昔仕事をしたことがあるデザイナーだが、こちらの顔を確認するといきなり、「レレレ、お出かけレスか~」などと言う(笑)。こちらもつい「シェー、それは古すぎるざんす」などと返していた。

    なんのことかわからない読者もいるかもしれないので一応書いておくと、この知人の言い回しは赤塚不二夫のマンガに登場するキャラクター「レレレのおじさん」のもの。赤塚作品では、確か『天才バカボン』か、その前から出てきて、特に物語とは無関係に登場し、いつも道ばたをホウキではいているという脇キャラなのだが、そんなキャラクターの言い回しが、何十年後に突然口をついて出てきたわけだ。

    私のリアクションのほうは言うまでもなく、同じ赤塚作品『おそ松くん』の割と重要なキャラ、イヤミの言い回し。イヤミは「おフランス帰り」という設定で、ベレー帽をかぶっており、自分のことを「ミーはおフランス帰りざんす」などとなぜか英語混じりで言う。「シェー」というのはこのイヤミが驚いた時のアクション。片足立ちで独特の手の形がともない、多くの場合あがっている方の足の先は天を向いていて、靴が脱げて、たるんだ靴下が見える。なんだか説明するのもバカバカしくなってくるが、本当にわからない人もいるだろうからしょうがない。

    しかしよく考えると、自分が子どもの頃読んだ赤塚不二夫マンガに出てくるキャラクターのほとんどを、今でも思い出すことができるのだ。おでんが好きで、「ケケケ」と笑うチビ太。頭のてっぺんに旗を立てていて、常に鼻水を垂らし、「ハタ坊だジョー」という語尾で話すハタ坊。裸にストライプのトランクスパンツのみで登場するデカパンは「デカパンだす」という語尾。実際、いまだにおでんといえば、チビ太が持っている串刺しされたコンニャク、ガンモドキ(大根という説もある)、チクワを思い出してしまう。そんなおでんの食い方などほとんどしないのに(子どもの頃、串刺しでおでんを売る屋台やお店がなかったわけじゃないが、ほとんど食べたことがなかった)。

    『もーれつア太郎』あたりから頻出してくるのは、正体不明の生物たち。毛虫とおぼしきケムンパス(「ケムンパスでやんす」)、カエルのようなベシ、ウナギ犬。タヌキのしっぽのあるココロの親分(自分がタヌキと呼ばれることを嫌っている)、目玉のつながったすぐ発砲する警官もこのシリーズあたりだったか、それとも『バカボン』からか。

    『天才バカボン』のマンガ連載の最初の回は、バカボンのパパにドーナッツを買いに行かされたバカボンがタイヤを買ってきてしまい、「ドーナッツてんの?」というだジャレのオチだったことも覚えているし、バカ田大学の校歌とか、家に訪ねてきた外国人が玄関で「ゴメーナサーイ」と言うのを、バカボンのパパが「誰かが玄関で謝っているのだ」と言ったりするやや差別的なギャグなどもよく覚えている。

    なにしろ赤塚不二夫作品、『おそ松くん』『もーれつア太郎』『天才バカボン』『ひみつのアッコちゃん』などは、雑誌連載のマンガでも後のテレビアニメでも観ていて、テーマソングとエンドタイトル時の歌など、ほとんど歌うことができるのだ。『もーれつア太郎』『天才バカボン』ともに、エンドタイトル歌の「ココロのシャンソン」「バカボンのパパ」は名曲だという気がする。

    手塚治虫だけでなく、赤塚不二夫も天才だ、などという話ではない。由井正雪みたいな人物は横山光輝の『伊賀の影丸』を読んでなかったら知らなかっただろうし、虚無僧の装束だってなんのことかわからかったにちがいない。森田拳次作の『丸出だめ夫』で決闘を申し込もうとしただめ夫が緊張のあまり「け、け、結婚しよう」と言ってしまうというくだりは、今でも覚えている。だからといって、私はマンガばかり読んでいるような子供だったわけではなくて、学校や近所の友人とよく外で遊んだ方だと思うのだ。

    同じ頃には、たくさん映画も観ているのだ。しかし『ゴジラ対モスラ』のストーリーは、かなり後で再度観たときにやっと理解できたのだし、洋画である『遙かなるアラモ』(ジョン・ウェイン主演)はデイビー・クロケットが銃剣で刺されて死ぬシーンばかり鮮明で、最近見直すまで、全体の物語は理解できてなかった。

    手塚治虫はマンガを「記号」だと言っていた。ある程度リアルな絵に言葉を組み合わせて伝えた劇画的な表現ではなくて、パターン化、カリカチュア化された記号表現を組み合わせて、それ自体言葉のように使い、読者にメッセージを伝えていく。読者の方は、この線で描かれた記号を自分の想像力を駆使して読み解かなくてはならない。表現の何もかもが比較的完全な形で与えられ、ただ受容すればいい映画などの実写映像と違い、読者自身の想像力を使った没入観が、情報量としては少なく、シンプルなマンガ表現の体験を、強い印象や記憶に結びつけるのではないか。

    これでいいのだ。

    福冨忠和(Tadakazu Fukutomi)
    vwyz@jca.apc.org

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