【コラム】

東京バイツ

135 メディア都市・東京に住んでいることの偶然性と、歴史の彼方にあるもの

    福冨忠和  [2003/07/02]

    コラムを読んだ読者の方からメールをもらうことがよくある。内容は賛辞、感想、意見、批判などが平均している。

    このコラムは「東京」を含むタイトルに反して、日本中、正確には世界中に配信されている。不思議だなと思うのは、そんな中、ごく個人的な話や東京の極めてローカルな話題を扱うと、意外に反響が多いことだ。単に、私が東京にしか住んだ事が無く、東京で活動しているのでこのタイトルにしているが、「南青山に出来たお店の店員が美人だ」といったローカルな町ネタなど、そこを訪れることも無い人が読んで面白いとは思えない。それでローカルな話を書くときも、あまりディテイルに触れないようにしているが、読者の反応は意外にそうなっていない。

    たとえば第108回「竜土町の模型店に磁場が渦巻いていた時代」については、海洋堂に関するメールや、近所にも似たような店があったというメールと同じくらい、竜土町(現在の西麻布と六本木近辺)に関するメールを幾つも送ってもらった。つい最近も、そこで書いた、私が名前を失念していた模型店の名前や状況を懐かしんで送ってくれた方がいた。これは、多くの人が東京に関心を持っている、ということではなくて、私自身がコラムタイトルの命名について考えていたように、東京のような場所(都市)が、メディアとして機能していることから来るのだろう。たぶん福岡とか札幌について書いても、同じような反響を得ることになる。

    では、私はなぜ東京に住んでいるのか。理由など無い。親が住んでいたから。偶然に過ぎない。では親はどうして住んでいたのか。それも偶然に過ぎない。

    いや本当は偶然とばかり言えない。

    数年前、実父が亡くなり、遺産の一部(わずかな信託預金だった)を相続するため、名義の書き換え手続きを行った。私と父の関係を実証するために住民票や戸籍謄本が必要になるのだが、父の出生時の住民票までが必要だと言われた。それらを取り寄せてみて、いろいろなことが見えてきた。

    私の出生地は旧・麻布盛丘町(現在の広尾近辺)にある割と有名な産院となっている。戸籍の住所は実家があった麻布霞町(現在の西麻布3丁目)にあった。麻布という地名は戦前東京が市制を敷いていた時に区の名前になっていて、現・港区内でいうと麻布区のほか白金区とか芝区などがあった。麻布霞町という表示は旧・麻布区の霞町ということ。このほか麻布三軒家町とか麻布笄(こうがい)町などもあった。もっと前の江戸時代には、旧・霞町、現・西麻布交差点のあたりは、江戸の芝、白金などから続く平地部のどん詰まりの谷にあたり、両サイドの丘には武家屋敷や寺社が点在していたようだ。実は霞町の霞は忍者など隠密を表わす隠語とのことで、実際江戸期の地図をみると、隠密同心の住居がそのあたりにある。隣町だった笄町になるともっとストレートで語源からして「甲賀伊賀(こうがいが)」から来ているという。

    父がここに住んだのは、父方の祖父がここ家を建てたからで、いわゆる「江戸っ子」に比べれば、そこから数えても私はまだ東京では3代目の新参の住人に過ぎない。だが、その父の住民票をたどると面白いことが見えてくる。

    父の出生地は現在の神戸市になっている。これは祖母の家族がいたためらしい。実家は四国の徳島らしいが、神戸女学院かどこかの教員だったという祖母は、親とともにそのあたりに住んでいたらしい。出生を神戸で届けられた父は、その後すぐ渋谷区青葉町に転入している。今手元にその現物がないので実際に「渋谷区」という表記だったかどうかはわからない。なにしろ渋谷区は、旧・東京市のはずれにあった場所で、現在の渋谷駅近辺は市と郡部の境界にあった。

    渋谷区青葉町は現在、神宮前何丁目かに名を変えているが、旧・都電都バス車庫、現・国連大学の裏手の地域。一時期私は偶然にも、そのあたりに事務所をかまえていて、父が懐かしそうに訪ねてきた記憶がある。

    では、なぜ青葉町なのかというと、祖父がそこにある屋敷の書生だったからだ。正確には、旧・稲葉藩の江戸屋敷があり、幼少時に父を戦争(日清戦争?)かなにかで亡くした祖父は、旧藩主に愛でられたらしく、その家に引き取られ成人していた。実際私の家の先祖代々の墓地は、稲葉藩の領地であった淀(京阪電鉄・淀駅)にいまでもある。鳥羽伏見の戦いで敗退する会津藩や新撰組を城内に入れなかったのは、同じ領主かもしれない。この維新政府への貢献の結果なのか、稲葉家は明治政府下でも華族として存続し、臣下の書生を屋敷内に住まわせる余裕もあったのだろう。旧藩主への年始年末のあらたまったご機嫌伺いは、父の代まで続いていたらしい。

    祖父は旧・稲葉藩屋敷で育ち、麻布中学(元・麻布学園)を経て、商船学校(現・商船大学)へ進学。貨客船への搭乗、先の大戦での海軍の輸送船団長などを経て、最後は商船大学の教員などをやっていた。商船貿易は飛行機の普及しない当時、国際的な職業の筆頭だったこともあるが、親戚から伝え聞く話では、親を早く亡くした祖父に藩主が配慮し、軍人にはさせなかった結果という。麻布の家も、稲葉藩の持ち物だったという真偽はっきりしない話を聞いたこともある。その後、麻布で育ち、学徒出陣を経て家に戻った息子すなわち私の父が、戦後、英国の商船会社につとめたのも偶然ではないだろう。就職に際して、祖父の根回しがあったとも考えられる。

    たしかに福冨家は古い家系らしく、私も親戚から話は聞いているが、さほどちゃんと調べたことはない。戦前には様々な史料や家財もあったようだが、東京空襲などで焼失してしまったようだ(一部は皇学館大学に福冨家文書などとして寄贈されている)。私が関心を抱けるのも、歴史の彼方の話ではなく、せいぜい個人的な範囲のことだ。しかし、私が偶然東京に住んでいる、というたいしたこともない話の背景に、江戸時代にまで続くようなコンテクストが見えてくる。まったく、私の家は、ごく最近まで江戸時代だったわけだ。

    都市がメディアだ、というのは、こういう側面からも言えることなのかも知れない。

    いつもメールをありがとう。

    福冨忠和(Tadakazu Fukutomi)
    vwyz@jca.apc.org

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