【コラム】

東京バイツ

133 お店で買い物をするときに、どこかぬぐいきれない「恥ずかしさ」の根拠とは

    福冨忠和  [2003/06/19]

    昔から気になっているのだけど、お店で物を買うときに、どこか恥ずかしい気持ちが起こるのはどうしてだろう。子どもだとか、10代の若い人ならわからないではない。店員のいる店で物を買うためには、少なくとも他人と商取引するわけで、ある程度の社会経験がなければ、苦手な要素が重複している。加えて、当該商品について売り手から情報を引き出したり、値引き交渉をしたりとなると、さらに自分が相手に試されるようで恥ずかしい。大人の交渉ごとの場など自分には場違いだという意識もある。だからコンビニのレジの機械的な処理とか、自販機での購入は、気が楽なのだ。

    親に頼まれた買い物だとか、自分と同じ年代の人間が滅多に来ないような店での買い物となるともっと恥ずかしい。近所のお店で買うと、「あら、福冨さんところの息子さんでしょ。お母さんはお元気?」なんて言われそうなものだから、わざわざ自宅から遠いお店に行ったりした記憶もある。

    こんなふうに若い頃の買い物の恥ずかしさにはいろいろな理由が付けられるけれど、いい年齢になって、いまだどこか恥ずかしいような苦手な気持ちがあるのはどうしてだろう。

    根っこにあるのは、購入時に自分のプライドが傷つけられることへの、防衛意識のようなものだ。

    物をお店で買うときに、お金を払うのは買い手である私の方で、利益は売り手が得る。もちろんその商品なりサービスなりに使用価値を見いだしているからこちらも買うのだけど、場合によっては買わなくてもいいわけだし、他のお店で買ってもいい。だから、本来はお客様である買い手のほうが、商取引では主導的な立場にあり、なにもお店に物怖じするゆえんはないはず。お店は、お客がいて、はじめて成立しているのだから。

    ところが物を売る側も、買う人が限られるようなオーダーメイドのよほど高価な商品でも無いかぎり、基本的にたくさんの人に物を売ることで成立している。「私に横柄な対応をするなら買わないよ」などと買い手が言っても、「結構ですよ、お客はあんただけじゃない」とも言える立場にある。社会的な差別意識などを元にしているのでなければ、「ガンコ」で有名な飲食店みたいに、お店にきた客にいきなり理不尽な理由をつけて「アンタには売らない」と言うことも売り手には可能だ。なにしろ商品っていうのは、売れるまでは、売り手側の所有物であって、その処分については、持ち主に自由がある。つまり、お客様あっての商取引という前提にもかかわらず、「たくさんのお店 対 たくさんのお客」という商取引の全体の中では、お店のほうもお客を選んだり、自由なスタンスで対応する権利を持っていることになる。

    情報の問題もある。売り手の多くは、特定分野のお店を営んでいるので、大概は買い手よりも商品に関して多く情報を持っているか、多くの情報を得られる立場にある。買い手側がそのお店に行くのは、その特定分野の商品の購入意向を(潜在的にせよ)持っているからで、購入欲求のある素人と販売意欲のある専門家が相対した形になる。つまり情報の圧倒的に非対称な関係。最近は、メディアや通信など、消費者側にもいろいろな情報入手や交換の手段があるわけで、以前ほどこの非対称性は際だっていないかもしれない。だから「A店よりB店のほうが安い」とか、「○○ブランドは品質が悪い」と思われたり、逆に良い評判がたつことで、ともに売り上げに影響してくる。たぶん最近の経済学などでは、この情報の流通・普及状況によって、公正な市場競争が成立する可能性なども論じるのではないかと思う。

    しかし、こういう立場の非対称とか情報の非対称を考慮しても、まだなにか買い手側に恥ずかしさを与えるような非対称性があると思うのだ。

    ひとつは、買い手が物を買うとき、いつも個人として購入する、ということ。商品を製造している会社も、売っているお店も、ある程度の資本を注入して大規模にすることで、その工程を組織化・構造化している。たとえば、私が雑誌に書いているコラムを、読者が私から直接買う場合、買った人は私の原稿料を全部負担することになり、とても高い(でもないか)。そこで出版社は、その記事を大量に印刷してたくさんの人に私のコラムを買って(読んで)もらうことで、ひとりあたりのコラムの購入単価を安くしている。いわゆる規模の経済ということだけど、この大量複製販売は、たぶん読者(買い手)側が、それぞれ個人としてバラバラに1冊の雑誌を購入することで成立している。もし読者側が組織化されていて、1冊買った雑誌を回し読みしたり、複製できれば、出版社のビジネスは成立しない。出版の場合は、著作権法はそれに歯止めをかけているけれど、一般商品での生活協同組合の共同購入の考え方は、こういう読み手(買い手)側の組織化によって、消費者側の立場を強化するものだろう。

    つまり、商品に関する情報をいくら持っていようと、私は最終的にどこかのお店でその商品を買わなければならない。みんなでまとめ買いするのではないから、「あなたには売りません」と言われる可能性を無くすことはできないし、場合によっては高い商品もやむを得ず買わなければならない。つまり「組織化された販売者 対 個人の購買者」という非対称があるんじゃないか。

    そのことは、さらにもうひとつの非対称の源となっている気がする。誰でもわかると思うけど、私個人の購買行動は、ある程度私の思想とか性格などを表出するものとなる。つまり買い物は、ある程度、自分の内面性の表現ともなっている。その表現行為を、売り手という赤の他人に晒すことへの抵抗感もある。お店の店員は、名前さえあかさず、自分の内面性なんてお客に晒さない。それでも、一般的な買い物はお金を介しての匿名の取引だからまだマシだが、近所のお店で「福冨さんの息子さんは、SM雑誌を毎号買っている」と知られてしまうことだってあるし、その情報を秘匿する義務も法規制もお店には無い。まあ、そこまで極端じゃなくても、「恋人の誕生日にプレゼントするので」などと極めて個人的な事柄を他人に話すことなく、うまく個人的に大切な贈答品を購入できないものか、という気持ちは、誰にでも少しはあるんじゃないか。

    物を買うことの恥ずかしさは、おそらく、店頭で、自分が大したこともない客のひとりに過ぎない、と思い知らされたりする可能性とか、赤の他人である店員に、自分の恥ずかしい内面をちょっと晒したりしなければならないことから、きていると思うのだ。

    福冨忠和(Tadakazu Fukutomi)
    vwyz@jca.apc.org

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