【コラム】
カンボジアに滞在二日目の夜であった。昼間の遺跡めぐりは相当めまぐるしく、早々に食事を取ってビールの一杯も飲みホテルに戻れば、あとはもう何もしたくない。何度も汗が流れては乾いたべとべとの皮膚を熱いシャワーと石鹸ですっきりさせ、Tシャツと短パンという楽な服装に着替えてベッドに倒れこんだ途端、この世のものとは思えないような心地よさが襲ってきて、数分後はもう夢の中にいた。
二時間ほど眠っていたことになるのだろうか。目を覚ましたのは、まだ深夜になっていない時間であった。あれほど歩き疲れてだるかった足先が嘘のようにすっきりしている。急に喉の渇きを覚えた私は冷蔵庫からミネラル・ウォーターを出し、何度も喉を鳴らして半分ほど飲んだ。頭がクリアになってきたところでふと思い立ち、バッグの中から煙草とライターを掴み出し、そっとドアを開けて廊下に出た。隣のベッドで眠っているメグミが禁煙であることへの配慮というよりは、旅人たちが疲れ果てて寝ていようがいまいがどんどん更けていく、シェムリアップの夜への興味であった。
いつも旅では妙に早起きになる私だが、夜にまったく行動しないというわけではない。部屋の外や宿の周りが夜になるとどうなるのか、何が起こっているのかが気になり、このまま寝てしまっては損をしているような思いに襲われることもしばしばである。されど、今回はじめてであるシェムリアップの町は、そのように安易な好奇心で気軽に歩き回ることははばかられた。
大通りを一歩外れれば、内戦時代からの地雷がいまだに埋まっているし、治安も良くないから夜は絶対に出歩くなとガイドにさんざん言い聞かされていたのである。どんなに外が気になろうと、せいぜい出て行くのはロビーまで。ここで煙草でも吸いながら人間観察するくらいで我慢するしかない。
湿っぽい匂いのする階段を降りたところにロビーはあった。まだ日付が変わる前だというのに、閑散としているどころか、すでに人気はない。幾つか置かれたソファの一つに腰を下ろした。ふと視線を感じたので顔を上げると、フロントで働く若い従業員が二人、驚いた表情でこちらを凝視している。私が視線を合わせても、彼らはすぐには目をそらさず、しばらくの間呆けたようにこちらを見続けているのである。
いったい何だというのだろう。煙をはきながら私は思った。ここで煙草を吸ってはいけないのだろうか。いや、テーブルの上には安っぽい灰皿が幾つも置いてあるから、ここが禁煙スペースであるはずはない。私と従業員たちが見つめ合っていたのは、ほんの数秒間のことだった。ついに私ははっと気がついた。
組んでいた足を元に戻した。姿勢を正して座りなおした。煙草を灰皿の中にもみ消した。そうだ。私が女だからだ。おもむろに足を組んで、煙草を吸う。しかも夜の夜中に、公共の場で。それらはどうやら、この国ではかなり女性としてのたしなみに欠ける行為だったらしい。しまった、と思った私は恥ずかしまぎれに従業員に向かって笑みを作ってみせた。ところが、それがさらに彼らを驚かしてしまったらしく、動きも表情もますます固まっている。目が合ったら知っている人だろうが知らない人だろうがあたりまえのように笑みを投げかける欧米の風習はここでは通用しない。わかっていたのに、つい失敗してしまった。
カンボジアに来てから、地元の人々とのそうした小さなコミュニケーションがうまくいかないと思うのは気のせいだろうか。過密なスケジュールに疲れているためか、妙にピントはずれの行動を繰り返してしまう。
翌朝もそうだった。ツアーのため、毎日決まったスケジュールに沿って行動していた我々は、食事や買い物の場所や時間もほとんど自由にならず、少しずつストレスがたまっていった。メグミと一緒にホテルの前で地元の人々を相手に営業している屋台の甘味屋へ行ったのは、朝寝坊してホテルの朝食に間に合わなかったからであるが、スケジュール表にかかれた以外の行動がスリルをかきたてたこともあった。
南瓜のプディング、タピオカ、ココナッツをふんだんに使ったケーキ、鮮やかなゼリーなど、屋台では色彩感覚に溢れたアジアの菓子やデザート類が甘いにおいを発していた。我々はそこから三種類ほどの菓子を指差して選び、値段を聞いた。
売っていた中年の女性は英語がわからなかったらしく、かなり戸惑っているようだった。女性の答えを待っている間、あっという間に我々の周りに人だかりが出来た。どうやらここに買いに来る外国人は滅多に居ないらしく、皆興味津々の顔をしてこちらを見ている。どことなく、怪訝な表情をしている人もいる。
その空気は、昨夜煙草を吸っていた私とフロントの従業員たちとの間に漂っていた、ねっとりと湿っぽいのにどこか突き放すような、いやな感じの空気と同じである。
「三ドルだよ」
そう言ったのは屋台の女ではなく、野次馬のように集ってきた男の一人である。彼は少し遠慮深そうに、だが微妙にこずるい光を瞳にたたえながら、癖のある英語でそう言った。私とメグミは互いに顔をあわせた。バスが出発する時間は迫っていた。日はすでに高くなりつつある。女主人が呆けたようにこちらを見ているためカバーをかけ忘れた甘いものに今にもハエがたかろうと飛び回っている。
一ドルは、たしか三千リエルだった。ガイドは、ここではドルが使えるから両替は必要ないと言っていたが、やはり現地のお金も少しは使うだろうとこっそりホテルで両替したレートがそれだった。遺跡めぐりの合間に訪れた市場で、リエルは早速役に立った。ジュース一杯が五百リエルだった。物乞いをしていたおばあさんに二千リエルをあげたらものすごく喜んでいた。バンコクに住んでいるメグミが囁いた。「タイより物価が安いのに、こんなんで三ドルなんて、ありえない」
だが、彼らは三ドルを要求している。たかが三ドル、されど三ドル。さして清潔にも見えない屋台の甘いものが三ドル。しかもタピオカにはすでにハエがたかっている。人々は我々の反応をじっと待っている。
「三ドルなら、いらないです」
私たちがそう言ってきびすを返そうとすると、さきほどの男とは別の男があわてたように「一ドル」と言った。
金を払って菓子を受け取ったのは、値段が三分の一になったからというよりも、我々が拒否したらせっかく袋に詰めた菓子の処理に、屋台の女主人が困るだろうと思ったからであるが、交渉が成立しても、我々と人々との間を流れていたあの空気は消えなかった。
どこかしっくりこない地元の人々とのコミュニケーションは、忙しさに駆られて、知らず知らずのうちにわがままで傲慢な「観光客(ツーリスト)」として振舞うようになっていた結果に違いない。本当は、どんなときでも、「旅行者(トラベラー)」としての自分を忘れてはならないのだ。訪れて通り過ぎていくだけの存在だからこそ、その土地に触れる手には心を込め、残した足跡には責任を持つ、そんな「旅行者」になりたいとあらためて思ったのだった。
(次回へ続く)
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