【コラム】

アジア風土記

67 アンコール遺跡の笛の音(2) 森が飲み込むものは……

中上紀  [2003/07/10]

ここは、夢の中なのだろうか。

地面からすでに遠く離れてしまった足元を見つめながらつぶやいた。私が立っている場所は、熱帯の木と苔が絡みついた石造りの寺院の屋根である。数百年もの昔、インドシナの大部分を領土としていたクメール王国の王たちは、さながら神のように民たちの上に君臨していた。この遺跡は、そんな王たちの中でももっとも強く、そして尊敬されていたという、ジャヤバルマン七世によって十二世紀後半ごろに仏教僧院として作られたタ・プロームと呼ばれる建造物である。遠いその時代、ここには幾千人もの僧侶や踊り子たちが暮らしていたらしい。だが、今あるのは王国の終焉と共に打ち捨てられ、忘れ去られてジャングルに埋もれた廃墟である。

その廃墟の、かつては屋根だった部分に立ったまま、遠くに聞こえる精霊の音に耳を澄ました。

シェムリアップに来てからまだ数時間と経っていなかった。だが、ここへ来るまでの間にすでにもう幾つかの遺跡を訪れていた私は、フライト疲れの上に炎天下を動き回りながらの遺跡見学で頭も身体も常に沸騰しているような状態にあった。

何しろ、カンボジアでは、見るもの、訪れる場所のすべてが濃い何かを抱え込んでいるように見える。もちろん、アンコール遺跡に昔から憧れていたのだから、実際に訪れていることへの素直な感動もあった。だが、それ以上にこの国の複雑な歴史的背景と、土地そのものにこめられた物語との絡み合いが、飢えや戦争などの理不尽な苦しみや、むき出しの生や死の存在からかけ離れた現代日本に住み、麻痺しきってしまった私の心に、熱いものを注ぎ込むのである。

たとえば、最初に行ったプノン・バケン。九世紀末に造られたこの丘型遺跡からは、アンコールを見渡す三百六十度のパノラマが広がるため、旅人たちはまずこの丘を目指すという。高さ六十メートルの自然の地形を利用して作られた遺跡の頂上に到達するためには、長い長い階段をえっちらおっちら登らなければならないのだが、そのプロセスの最中、出くわした場面は噴き出してくる汗と引き換えのように体内に吸収され、私の心をちくちくとノックし続ける。

「ハロー、ジス ウェイ プリーズ」「オネエサン、こっちこっち」「マダム、コーク、スピライト、ウォーター、ベリーコールド」「オミヤゲ、ベリーチープ、オンリー2ダラー」「コニチワ」「キレーデスネー」

一段一段階段を踏みしめる私の周りでそんなことを口々に言いながらどこからともなく集ってきたのは、地元の子どもたちであった。日焼けしたくったくのない笑顔で英語や日本語の“商売用語”を上手に連発する彼らは、いずれも小学校低学年ぐらいの年齢に見えるが、遺跡を歩いていると、このような子どもたちには必ず出くわす。普段は遺跡を飛び回って遊び、外国人旅行者が来ると一斉に群がり、みやげ物を買ってくれとせがむ。売る物がない者は、荷物を持ってくれようとしたり、カタコトの英語や日本語を駆使して遺跡の説明をはじめたり、頼んでもいないのに扇子で我々の背中を扇ぎ始める。皆、チップを期待している。

アンコール遺跡を旅するということは、彼らと付き合うことでもある。家が貧しく、多くは学校に行っておらず、家計を助けるために旅行者の落とす金を当てにせざるを得ないのだ。まとわりつかれ、私も最初は戸惑った。だがやがて、彼らだって商売なのだし、私だって旅行者である以上、みやげも買うし水やコーラも飲むのだからと思いはじめた。そして、いつしか子どもたちの姿がないと寂しいとさえ感ずるようになっていた。

遺跡で遊び、商売をする。遺跡の中で喜んだり悲しんだりしながら生きていく。無邪気で、そしてとても強い彼らは、遺跡の精霊なのかもしれない。

タ・プロームへは、鬱蒼と樹木が茂った道を通ってきたのだった。絡み合った木々によって濃い緑色になった視界の奥に、修復されないまま、百数十年前に西洋人によって発見されたままの姿で、遺跡はゆっくりと現れる。

巨大なガジュマルの木がからみついたその光景は、まるで大蛇が獲物を飲み込もうとしているかのようで恐ろしげだったが、私はなぜか自分も遺跡の一部になって飲み込まれたい欲求に駆られた。吸い込まれるように遺跡の内部へ入ろうとすると、小さな男の子がすっと現れた。男の子は、みやげを売るのでも、ガイドをかってでようとするのでもなく、ただ、静かに笛を吹いていた。

精霊の笛は、いまは私の寝室の棚の上に飾ってある。いつでも、その夢の中に戻れるように。

(次回へ続く)

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