【コラム】

アジア風土記

22 新鹿の散歩道(2) しっぽの禿げた紀州犬・その2

中上紀  [2002/07/18]

家に来たばかりの頃、私が学校から帰ってくると、じゅっとくは尻尾をいっぱい振って嬉しそうに迎えてくれた。妹と私は、ランドセルを置いたらすぐに、犬を繋いでいる綱を外し、散歩に出かけるのが日課になっていたからである。

家のすぐ横を流れている川に降りて小魚を捕ったり、広い砂浜に出て鬼ごっこをしたり、私たちは自然の中で思いつくすべての遊びをした。犬を散歩させるというより、犬に遊んでもらっていたといって良い。

新鹿の町から車で少し山の方へ入ったところにある段々畑を、その頃父は買っていて、ジャガイモやトウモロコシなどを植えたりしていた。世話をするために、最初の頃は私や妹を連れてほとんど毎日車でそこへ行った。畑仕事と言っても子供だった私は草むしりぐらいしか出来なかったが、それも気が向いた時だけで、しかもたいがいは途中で飽きて、ヘビやトカゲを捕まえたりしていた。

畑へはじゅっとくも必ず連れていった。じゅっとくは車に乗ると必ず酔い、くぅんくぅんと気分が悪そうな声を出し、外の空気を求めて窓から身体を乗り出す。犬なのに、車酔いをするとはまるで人間だと私は思った。一歳の弟とは精神年齢も身体の大きさも変わらないためか、両親ですらしょっちゅう名前を呼び間違えるようになった。じゅっとくは犬であり、もう一人の弟でもあった。新しい家族に、私は夢中だった。

それ以前から、私は友だちと遊ぶよりも家で妹弟と過ごすことのほうが多かった。

二つ下の妹や年の離れた弟とでは遊びも会話の内容も限られてくるので、同い年くらいの友だちと遊ぶほうが楽しいに決まっているが、せっかく友だちが出来てもすぐに別れ別れになってしまう。私の家は引っ越しや家族ぐるみの旅行や移動が多く、何度もの転校を余儀なくされていた。家族が遊び相手なら、後で寂しい思いをしなくて済む。無意識に、そう思っていたのかもしれない。

それに、新鹿に来る前はアメリカに滞在しており、カリフォルニア州のサンタモニカでは地元の公立小学校に半年間通ったが、言葉が通じないためほとんどのクラスメイトと意思の疎通が出来ず、唯一友だちになったのはクラスでいちばんおとなしい女の子であった。私もその子も学校ではひと言も喋らなかった。彼女との間に言葉は必要なく、ただ一緒に絵を描いたり笑ったりするだけで心が通じたのである。

だが、他の人との間には分厚い見えない壁があり、私が英語を話せるようにならない限り、それを乗り越えるのは不可能に思えた。学校も、アメリカという国も、幼い私にとっては無言の閉ざされた世界であった。家に帰れば話すことの出来る日本語がどれほど嬉しかったことか。言葉の通じる家族の存在が、特に一緒に遊べる妹がいることが、どんなに毎日の生活に光を与えてくれたことか。

だが、学校がはじまるとすぐに私はアメリカとはまったく違う状況に置かれていることに気づいた。新鹿の同級生たちは、歯切れの良い、それでいてゆったりした情緒をかもし出す新鹿弁を話していた。私は東京弁しか話せなく、最初はどことなく恥ずかしい思いがしたが、言葉の壁はどこにもなかった。新鹿では、あらゆるものを包み込むように存在する自然の一つ一つが言葉を持っていたのである。何もかもが、光に満ちあふれるここでは、海や山が、私にその光の中で思いっきり手足を伸ばし、羽を広げて飛び回れと囁きかけるのであった。

ランドセルを置いたら、友だちと合流するために私は一目散に外に飛び出していくようになった。はじめて、外で友だちと遊ぶのを心から楽しいと思った。海や空や山や川や、田んぼ一杯に産みつけられた蛙の卵や、キャベツ畑のイモムシや、軒下のツバメの巣に生まれた雛たちが私を呼んでいた。良いことも悪いことも、大切なこともくだらないことも、すべてがみずみずしく純粋であった。そんな毎日の中、他のものは何も見えなくなった。あれほど夢中だったじゅっとくのこともである。

楽しみだったじゅっとくの散歩は、面倒な義務と化した。いつも私を見るとしっぽを振り、綱をはずしてくれるのを待っている犬を、私は何度も裏切った。寂しそうな犬の表情に気づいていないわけではないのに、知らんふりをして出かけていったのは一度や二度ではない。いつしか、家族の誰かが気づいたときにしぶしぶ、といった感じで散歩は行われるようになったのである。

ある日、その事件は起こった。久しぶりに柱にくくりつけていた綱をはずすと、じゅっとくは物凄い強さで私を振り切り、家を飛び出していった。すでに大人の犬と同じくらいの大きさに成長していた犬は、あっというまに海のほうへ姿を消した。そして、何日も消えたままだった。

ショックだった。きっと、散歩を忘れてばかりの私に愛想を尽かして出ていったのに違いない。もう、二度と帰ってこないかもしれない。私は反省した。じゅっとくの寂しそうな顔が思い浮かんで泣きそうになった。……もし戻ってきたら、これからは絶対散歩を忘れたりするものか。カミサマ、今後は、何を置いてもじゅっとくを可愛がります。だから……。

犬は戻ってきた。近所の人が連れてきた。その人の話では、じゅっとくは雌の犬を追いかけてそこらをウロウロしていたらしい。もうすっかり大人で、ガールフレンドが欲しい年頃だったのだそうだ。

じゅっとくは、あいかわらす私を見るとしっぽを振って散歩の催促をした。しっぽには禿げていた時の面影はない。季節はすべてのものが競い合うように発色する、夏になっていた。

(次回へ続く)

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