【コラム】

アジア風土記

1 西双版納夢風景区(1) 南の誘い

中上紀  [2002/02/07]

去年の秋、はじめて行った中国、北京で行われたさる文学関係の集まりに参加したあと、一人雲南へ飛行機で向かった。行き当たりばったりの、直前まで行く先すら決めていない旅で、北京での用事が終わって六日後の帰国用チケットだけを持っていた。ただ、雲南省のどこかへ行きたいという考えだけは、頭にあった。そして、北京のホテルの旅行カウンターで、口をついて出たのが、雲南省の中でも最南に位置する、西双版納自治州だった。

旅が好きである。欧米文化、物質文化が氾濫し、テレビや携帯電話やパソコンによって常に世界とリンクしている日本で暮らしていると、この社会だけが現実で、それ以外は異次元の出来事であるような錯覚に陥る。あたりまえなのだが、それは単なる勘違いに過ぎない。旅に出ると、そのことをたちまち思い出す。

旅とひとことで言っても、さまざまである。海外や地方への旅行だけに限らず、気分転換の散歩や、いつもと違う店での買い物や、新しい趣味も、旅のうちに入るだろう。非日常の世界に身を置くことが、旅である。今、目の前にあるものだけがすべてではないことを、旅は教えてくれる。

高校時代からの十数年間をアメリカで暮らした。多人種の国だから、アジア人というかたまりの中の一人としての意識があった。しかし、日本に戻ってきたのは四年ほど前だが、アジアがとても遠く感じられることに気づいた。どこか別の場所に存在するように思えてくる。日本はアジアの中にあるというのに。アジアの国々へ通いつめているのは、遠くなってしまった何かに、少しでも近づきたいからかもしれない。

昆明で乗り換えた飛行機は、ものの数十分で西双版納に着いた。北京から昆明まで三時間半くらいだから、合計四時間強のフライトである。

機内から外に出た瞬間、あまりの眩しさに目を瞑った。再び目を開けると、夕方も近いというのに、濃い青の空が降るように広がり、金色の太陽がさんさんと輝いている。前にいたグループ客の何人かが、手を顔にかざした。北京とは気候も風土も完全に異なる熱帯雨林のこの地には、南の景観を求めて、中国各地からの観光客が押し寄せる。彼らもその一部であろう。そんな旅行者の我々に洗礼を施そうとしているかのように、さっそくじりじりと肩を焼きはじめる日差しは、中国のというよりも、タイやミャンマーなど東南アジアのそれだった。

風の吹くままの旅であるから、宿なんて決めていない。空港にいた客引きに引っ張られるままに、その男が働く旅行代理店のシャトルバスに乗り込み、車中で値段交渉の末、降ろされたホテルでチェックインである。言葉はもちろん通じない。

これまで旅してきたほとんどの国では、英語圏でなくても少しぐらいは英語が通じた。それに身振りなどをプラスすれば、ほぼ完璧にコミュニケーションがとれたものだ。だが、中国ではそうはいかない。北京で泊まったホテルは別だが、街中で出会った人には一言の英語も通じなかった。もっともユニバーサルな方法である笑顔とジェスチャー、そして漢字での筆談があるのみである。かなり危ういコミュニケーション法であるが、これで乗り切るしかない。時にはそのほうがよりおたがいの気持ちが伝わる気がして楽しかったが、ワープロ愛用者には、慣れない漢字のオンパレードと過剰なボディランゲージはかなりの体力と気力を消耗させたことも事実である。

あれほど強い光を発していた南国の太陽は、あっと言う間に山の後ろへ消えていった。夜のとばくちに差しかかった大通りには、生暖かい風がゆっくりとそよいでいる。疲れてはいたが、何かに引き寄せられるように歩きつづけ、懐かしい空気に誘われて細い通りを曲がった。小さな食堂が幾つも並び、店の前に置かれたテーブルで家族連れが食事をしている。懐かしいのは、そこから漂う香辛料の匂いであった。

西双版納には、雲南省に住む二十五もの少数民族のうちの、十民族以上が暮らしている。ラオスやミャンマーと国境を接し、タイやベトナムも近いため、文化的にも東南アジア色が濃い。漂ってくる香辛料の香りは、タイの北部を思い出させた。ちょうど夕食時であったため、通りには粗末な食堂から観光客が寄って来そうなディナーショーつきのレストランまで、ことごとくが煌々と営業中の光を放っていたが、私はそのうちの一つである、アルファベットでメコンカフェと書かれた店に入った。

店は二階にあり、吹き抜けになっていた。私は通りを見下ろせる席に座った。店員がやって来た。まだ少女と言ってもいいような、若い女性であった。どことなく、タイの山の中で出会ったアカ族を思い出させる顔だ。彼女も、少数民族だろうか。
「一人でいらしたんですか? 私、レイニーっていうの。ハニ族の出身よ」
流暢な英語だった。筆談の準備を万端に整えて、ペンを握りしめていた私は嬉しさと驚きのあまり、目を見張った。(次回へ続く)

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