老いらくの恋というものに昔から興味がある。

老人ホームで働く知人に聞いたところ、齢70を超えた男女でも、やはり色恋沙汰は普通にあるという。特に人間は歳をとると、女性のほうが積極的になるらしい。人気者のじいちゃんを激しく奪い合う老婆同士の熾烈な争い。時には髪を引っぱりあうといった武力闘争も辞さないらしく、その知人は苦笑いを浮かべていた。

また、金婚式を迎えるほど長く連れ添った老夫婦から恋愛感情の残り火みたいなものが見え隠れすると、僕は無性にドキッとしてしまう。かつて一世を風靡したチャーミーグリーンのCMのように、誰にでも伝わる微笑ましい光景だけではない。人間は極限まで追いつめられたときにこそ、本当の意味での愛の絆が試されるのだ。

例えば2007年に他界した世界的建築家の黒川紀章さん(享年73歳)。晩年、病床で死線をさまよう黒川さんに、妻である女優の若尾文子さん(当時73歳)は「ごめんなさい。わたしは立派な奥さんじゃなかったね」と涙ながらに声をかけたところ、黒川さんは声を絞り出すようにこう言ったという。

「そんなこと言うなよ。本当に好きだったんだから」

これには目頭が熱くなった。長い歳月をかけて育んできた二人の愛は、若い頃と確実に形を変えていたと思うのだが、それでも最期の最期に愛とはそもそもシンプルなものだという真理に辿りついたのか。二人の間でどんな苦労があり、どれだけの喧嘩を重ねてきたかは知らないが、きっとこの言葉によって、まるでオセロのようにすべてが白にひっくりかえったのだろう。黒川さん、あなたのことを尊敬します。

さらに、こんな話もある。

あの阪神大震災のとき、祖父母と父母、三人の子供たちが一緒に暮らす大阪の或る大家族は混乱の最中にあった。早朝、激しい揺れに目を覚ました父と長男は男二人で懸命に家族を守ろうと奔走。まず二人は寝室で震える母の手を引き、家の中で一番安全だと思われるリビングに連れて行く。母に布団をかぶせ、「ここで待ってろ」と告げた二人は、続いて長女と次女の部屋に向かう。すると、部屋の中で泣いている長女と次女。ここでも二人は姉妹の手を引き、リビングへと誘導したという。

しかし、次に向かった祖父母の部屋で、父と長男は悲惨な光景を目にした。祖父母の上に大きなタンスがいくつも倒れ落ちており、祖父母が下敷きになっていたのだ。

長男は思わず絶句した。全身から脂汗が滲み出て、胸の鼓動が高鳴っていく。最悪の事態がはっきりと脳裏をよぎる。そんな長男を叱咤し、一刻も早く下敷きになった祖父母を救い出そうと気丈にふるまう父。ショックを受けている暇はないのだ。

父と長男は二人で力をあわせ、幾重にも倒れこんだタンスの山を必死に引き上げていった。まだ助かる可能性はある。そう信じて、二人は懸命に汗を流したのだ。

すると、ようやくタンスの下敷きになっている祖父母の姿が視界に入った。

「じいちゃん!?」

その光景を見るや否や、驚きの声をあげる父と長男。それもそのはず、齢70を超えた祖父が、布団で眠る祖母に覆いかぶさり、細くしわくちゃに衰えた右腕一本で巨大なタンスを支えていたのだ。

数十キロはあろうかという幾重ものタンスである。当然、右腕だけで支えられる重さではないが、それでも衝撃をやわらげることぐらいはできたのだろう。祖母は奇跡的に無傷で生還し、祖父も右腕を骨折しただけで大事には至らなかったという。

数年後、その祖父は病気により八十歳でこの世を去った。葬式のとき、祖母は人目をはばからず涙を流し、祖父の遺体に「ほんまに好きやったよ」と小さな関西弁で声をかけた。祖母の表情は恋する乙女そのものだった。年月の澱みなどまったく感じられず、どこまでも優しく美しい、澄んだ瞳をしていたという。

夫婦とは一体人間の何を試しているのだろう。赤の他人同士の愛の絆。それはともすれば人間の強さなのか。人類の果てない可能性なのか。もうずっと何十年も前に二人の間にどんな恋があって、どれだけの苦難を乗り越えて、それを守り通してきたのか、僕は知らない。しかし、僕も将来、もし結婚することがあるとすれば、この祖父のように妻を愛したいなと柄にもなく感傷に浸るのだ。

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