【レポート】

半世紀前の幻のような光景--上武鉄道日丹線廃線跡の旅

1 客車一両分のホーム跡から漂うかつてのにぎわい

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今から半世紀前、埼玉県北西部に位置する神川町の八高線丹荘駅から西武化学前駅の間、6.1kmを結ぶ上武鉄道日丹線(にったんせん)という、それは小さな私鉄が走っていたことを知る人は少ないだろう。筆者は以前、ディーゼル機関車が牽引する貨車の後に、一両だけ二軸客車を連結して走る幻のような光景の写真をネットで見て以来、この路線のことがずっと気になっていた。そして5月、この廃線跡をたどるべく、初めて現地を訪問した。

貨車の後ろに小さな二軸客車(ハフ3)を一両だけ連結して走る上武鉄道日丹線。まるで幻のような光景だ(昭和47年 御供良一撮影)

訪れた時、たまたまJR東日本主催の「駅からハイキング」が行われており、日丹線跡もウォーキングコースになっていたことから、丹荘駅の駅舎で昔の日丹線の写真の展示会が行われていた。今回、それらの写真を所有する神川町経済観光課に、写真をデジタル化して記事で使用させていただく許可をいただいたので、この機会に、改めて廃線跡を歩いてレポートすることにした。

上武鉄道日丹線の歴史

日丹線は太平洋戦争中、軍需物資であるニッケル鋼の増産のために、日本ニッケルの若泉製鋼所と八高線の丹荘駅を結ぶ工場専用鉄道として、昭和17(1942)年に開業した。戦後は軍需物資の輸送という使命を終えたことから、地方鉄道に免許を変更して、貨物輸送のほか旅客輸送も開始した。青柳駅、寄島駅という2つの途中駅を開設し、さらに、昭和41(1966)年には、神川中学校前駅を新駅として開業した。

若泉製鋼所は、戦後は西武系の化学肥料メーカーである尼崎化学肥料の工場となり、後に、朝日化学肥料に社名を変更。さらに、昭和35(1960)年には日本ニッケルの鉄鋼部門を吸収し、西武化学工業と社名を変更した。これに伴い、日本ニッケルの鉄道部が独立して上武鉄道となり、終点の駅名も「西武化学前」に変更した。西武化学前という駅名ではあるが、元々、工場の引き込み線なので、駅は工場の敷地内にあった。

旅客営業最後の日である昭和47年12月31日に「さよなら号」とともに丹荘駅にて(御供良一 撮影)

しかし、旅客営業は、当初は利用客もみられたものの、バス路線の発達や自家用車の普及などにより利用者が激減。昭和47(1972)年に旅客営業を廃止した。一方で、貨物輸送の方は、昭和61(1986)年11月に八高線丹荘駅で貨物取り扱いが廃止されるまで続き、同年12月31日付けで路線廃止になった。

神川中学校駅跡を目指して

それでは、日丹線廃線跡を歩いてみることにしよう。丹荘駅の改札を出たら、まずは左手に歩く。150mほど進むとすぐに八高線の踏切があり、手前には大正時代に立てられた当時の丹荘村の「道路元標」がある。道路元標とは、道路の起点・終点を示す石材を用いた標柱で、各町村役場などに立てられたという。

大正時代に立てられた当時の丹荘村の「道路元標」

踏切を越えて丹荘駅方面を見ると、草むした空き地が駅に向かって続いている。かつて、八高線丹荘駅に隣接して存在した日丹線丹荘駅から続く線路跡だが、現在は私有地になっているので、立ち入りは控えたい。

一方、駅と反対側を見ると、商店の横からカーブしながら道が続いているが、これが廃線跡だ。しばらくは車も走る一般道になっているが、500mほど歩くと、緑が植栽された遊歩道に変わる。

商店の横からカーブしながら続く道が、かつての鉄道跡だ

周囲に広がる長閑(のどか)な田園風景や、上州の山々を眺めながら遊歩道を歩くこと15分ほどで、かつての日丹線の最初の停車駅であった神川中学校前駅跡に到着する。ここには、当時のプラットホームがほぼ当時のまま保存されており、ホーム上には「神川中学校前」と書かれた駅名表示版が立っている。しかし、これは当時のものではなく、観光用に後で立てられたものだろう。それにしても、ホームの長さは客車一両分しかなく、アンバランスな印象を受ける。

神川中学校前駅跡のプラットホームは、客車一両分の長さしかない

ちなみに、『日本ニッケル鉄道-上武鉄道開業から終焉まで-』(高井薫平著)という書籍に、昭和43(1968)年に撮影された神川中学校前駅の写真が掲載されている。比較してみると、ホームの長さと奥行きは当時も今も変わりなく、当時のまま保存されていることが分かる。違いと言えば、現役時代は狭いホームの上に不釣り合いなほど大きな待合室があったことくらいだが、この待合室でどれくらいの数の中学生が列車の到着を待ったのだろうか。

青柳駅跡を探して

さて、先へ進むとしよう。神川中学校前駅跡から300mほどのところに、うっかりすると見逃してしまうような鉄道の痕跡を見つけた。遊歩道脇のベンチに寄り添うようにして立っているのは、明らかに鉄道の信号機だ。点検用の鉄製のハシゴはすっかりさび付いており、蔓(ツル)が絡まっている様子からすれば、廃線後30年以上、このままの状態で放置されてきたのだろう。

遊歩道脇に残る鉄道の信号機

さらにしばらく歩くと、田んぼに水を引く用水路が遊歩道の横を流れはじめ、やがて右手に、食品工場の敷地内に立つ背の高い液化天然ガスのタンクが見えてくる。この辺りが次の青柳駅があった場所のはずだが、駅の痕跡らしいものが見当たらないので、近所に住む、この地に嫁入りして60年になるというおばあちゃんに尋ねてみたところ、貴重な話を聞かせてくれた。

まず、ガスタンクと遊歩道を挟んで向かい側に数十枚のソーラーパネルが設置されている場所があるが、青柳駅のホームはその隣に建っている家の辺りにあったという。ホームは、この家を建てる時に取り壊してしまったようだ。ちなみに、駅まで行かなくても、乗りたい場所で手を上げれば列車は止まってくれたといい、高崎へ用があって出かける時などはたまに利用したが、乗客はほとんどいなかったそうだ。

青柳駅跡付近を丹荘駅方面に向いて撮影。おそらくベンチが設置されているあたりにプラットホームがあったのではないか

記録によれば、昭和38(1963)年のダイヤで、旅客列車は1日に4往復しかなかったというから、これでは使い勝手が悪い。廃止直前の年間の輸送人員は2,000人程度で、一日平均10人を割っていたことになる。廃止になるのも当然だ。

古墳群からかつての栄華を思う

青柳駅跡から先はしばらくの間、廃線跡は再び一般道になっている。取材した9月中旬、周囲の田んぼの稲は、黄色く色付きはじめ、間もなく迎える収穫の時期が待ち遠しそうに、風に穂を揺らせている。

道路右手の田んぼの中に、小高く盛り上がった土山のようなものがいくつか見えるが、これらは古墳群であり、6世紀中頃から後半にかけてつくられた、全部で17基の円墳だという。この辺りは神流川(かんながわ)の水流に沿って平地が広がっており、古代から豊かな土地で、有力な支配者がいたのだろうか。

青柳古墳群十二ヶ谷戸支群

古墳群を越えた先から、道は遊歩道に戻る。ここから先は、鉄道用に小高く造られた築堤の上を遊歩道が通っており、見晴らしが良く、今回の廃線跡散策の中では最も気持ちよく歩ける場所だ。

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目次
(1) 客車一両分のホーム跡から漂うかつてのにぎわい
(2) ディーゼル機関車が走っていた頃--帰りはみずみずしい梨をお土産に
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