「喜劇役者」に比べて、「悲劇役者」という言い方は、存在はするにしても、あまり使われない。「悲劇」なんてあんまり訪れてほしくはないし、演技の世界では、泣かせるよりも笑わせるほうが難しいと言われるので、「悲劇役者」などとわざわざカテゴライズする必要もないかもしれない。

だが、8月20日放送の大河ドラマ『おんな城主 直虎』第33回、「嫌われ政次の一生」を観て、高橋一生の、優れた「悲劇役者」っぷりに、ノックアウトされた。

描かれた美しい地獄絵

高橋一生

記録に残るより、記憶に残るものを、とよく言うように、『おんな城主 直虎』第33回の、クライマックスは、皮膚に傷をつけて描く入れ墨のように、心身共に、一生消えない美しき地獄絵として刻みつけられた気がする。

戦国時代、女でありながら井伊家の当主となり、直政(子役:寺田心、成人後:菅田将暉)を育てた、直虎(柴咲コウ)の生涯を描く物語で、高橋一生演じる小野但馬守は、直虎の幼馴染みにして、彼女を支え続けた人物。史実では井伊家を裏切った人物とされているが、森下佳子の書くドラマでは、敵の目を欺くために、あえてワルモノになっていたこととして描かれる。

33回に至るまでの何話かで、周囲の人間たちに、実は……と明かされ、そうだとわかっていましたよ、はっはっは! みたいな、身内間ではじつにいい感じの流れになっていたが、森下佳子はいい意味で悪魔だった。その場で観ていた人が生き残ってないのだから、裏切り者じゃなくていいじゃないかと願う視聴者も多かったとはいえ、半面、史実は史実でちゃんとやってほしいと願う人もいるわけで。森下は、そのどちらの想いも汲み取った結果、美しき地獄絵を描き上げた。まだ観ていない方は、26日の再放送か、オンデマンドを観てほしい。

あまりの興奮に、ここまでで2回も「美しい地獄絵」と書いてしまったが、以前ある舞台に出演した高橋一生にインタビューをした時、「殺人にしても、近親相姦にしても、ギリシャ悲劇などのほうがもっと残酷ですよ。にもかかわらず、なぜか、現代劇になると、グロテスクさにフォーカスが当たっちゃうけれど、古典化すると途端に美しくなる」(+act 2015年2月号)と言っていたことを、思い出したからだ。高橋一生の第33回のあのシーンは、古典として語り継がれるような、残酷なまでの美しさとなった。

真実を持っていった2人

エンタメの世界では、近年、心理戦ものが好まれている。本心を隠して相手の裏をかく痛快感は、推理もの、企業もの、恋愛ものなど、いろいろなジャンルに応用が利く。前作の大河ドラマ『真田丸』も心理戦の妙が生き生きと描かれていたが、どの作品も、真実が明るみに出た時の痛快さで話が描かれた。だが『直虎』は、真実は直虎と政次のふたりだけのもの、ふたりが墓場まで(地獄まで)もっていくものという、最上級の甘美さ、神聖なものに昇華させたところに、森下佳子の腕力を痛感する。

そうなるためには、脚本も、演出も力が入っていたのだけれど、高橋一生演じる政次が、とにかく徹底して、直虎を想い続けてきた結果なのだと思う。高橋一生の瞳が、直虎を見つめ過ぎて、彼女を自分の瞳に映し過ぎて、柴咲コウのような瞳になってしまっていた感じがする。

NHKの公式サイトのインタビューで、高橋は「人の心は実際には分からないものだから、そこを埋めようとして相手の顔を見ているのかもしれないと思ったんです」と語っているのを読むと、やっぱり高橋一生は、直虎をひたすら見つめることに心を砕いていたのかなという気がしてならない。

ぎっと見開き固定したその瞳を、高橋一生は、場面によっては、時々ぱちぱちと瞬きさせていて、見開き続けた時と、瞬きした時で、心持ちが違うのだろうか、などとも想像させる。単純に考えると、見開いている時は表の顔なのだが、さらに考えると、直虎のことを考えている時は、見開いているようにも思う(私解釈)。

直虎と政次の関係を知りながら、政次に尽くしてきたなつ(山口紗弥加)が、直虎との所縁の碁石を見ないように、彼の目に手でふたをする場面は、目を開いている間は、直虎を追ってしまうのだというかのように思え、なつの心情にも涙した(私妄想)。

政次の死は再生の儀式

高橋一生の芸歴は長く、ミュージカル『レ・ミゼラブル』にも子役で出演、舞台と映像とで、確かな演技力を発揮してきた。『民王』(15年)、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(16年)とちょっとずつ注目度が上がってきて、『カルテット』(17年)で大爆発し、そのまま『直虎』になだれ込んだわけだが、2005年にもプチ高橋一生ブームは起こっていて、『怪奇大家族』の出演によって、TVブロスが行う「好きな男 嫌いな男」特集で好きな男第2位に選ばれている(1位は、大河ドラマ『新選組!』の山南を演じた堺雅人)。この頃、『花より男子』などのドラマによってイケメンブームが盛り上がっていたのだが、オオカミが家を襲いに来たところを、末っ子が柱時計の中に隠れて助かった『7匹の子ヤギ』のように、イケメン狩りに合わず、ブームに消費されなかったことが、高橋一生を今の存在にしたと思う。ほんとうによかった。

高橋一生は、一見、明るくふるまっていても、どこか影のある役が多い。とてもナイーブで少々屈折した印象があるが、この長いことひっそり隠れていて、ようやく見つけられた感じ(あくまで感じです。彼はずっと前線で活躍していたのです)が、彼を、悲劇の似合う俳優にしているようにも思う。

その、どこか、影のあるイメージが、政次という役をやる上では、この上なく効果的に働いた。でも、もう、これだけの神話クラスの悲劇を演じきったのだから、今後は反転して、まったく違ったイメージの役にも挑んでほしい。

激しい政次ロスではあるが、政次の死は、俳優・高橋一生が、これからもっと生き生きと輝いていく、再生の儀式だったのだ(と、果てしなく妄想が続く)と、前を向こうではないか。

■著者プロフィール
木俣冬
文筆業。『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書)が発売中。ドラマ、映画、演劇などエンタメを中心に取材、執筆。著書『挑戦者たち トップアクターズ・ルポルタージュ』『ケイゾク、SPEC、カイドク』、構成した書籍に『庵野秀明のフタリシバイ』『堤っ』『蜷川幸雄の稽古場から』などがある。最近のテーマは朝ドラと京都のエンタメ。