中島春雄さんが2010年に上梓した自伝『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』(洋泉社)表紙

1954年の東宝映画『ゴジラ』で、水爆大怪獣ゴジラのスーツアクターを務めたことで知られる元俳優の中島春雄さんが、8月7日に肺炎のため亡くなったことがわかった。88歳だった。本稿では、中島さんの長年にわたる俳優活動の中でも多くのウエイトを占めた怪獣演技に焦点を当て、その功績を振り返る。

中島さんは1929年1月1日、山形県酒田市で生まれた。映画学校を経て、中島さんが東宝に専属俳優として入社したのが1950年。邦画全盛の真っただ中で、中島さんは全身火だるまになるファイヤースタント(『太平洋の鷲』1953年)や、人気スターのスタンド・イン(吹き替え)をはじめ、さまざまな役で数多くの映画に出演してきた。

そんな中島さんの俳優人生で一つの転機となったのが、1954年に製作された『ゴジラ』(監督:本多猪四郎)。元プロ野球選手で体力自慢の先輩俳優・手塚勝巳さんと共に、怪獣ゴジラの中に入って演技をすることになった中島さんだが、参考試写としてアメリカの怪獣映画の古典的名作『キング・コング』(1933年)を観たものの、「水爆実験の影響で永い眠りを覚まされた古代恐竜の生き残り」という怪獣ゴジラをどのように演じたらいいのか、皆目見当もつかなかったという。

そこで中島さんは、俳優の仕事の合間に上野動物園に出向き、ゾウやクマなどの大型動物がどのような動きをするのか、じっくり観察し研究を行ったそうだ。しかし、第1作ゴジラのスーツは、後年のような動きやすい素材がまだ開発されておらず、当時の最新技術である特殊なプラスチックを素材として造形されたといい、これが信じられないくらい重量のある代物で、中に入った手塚さん、中島さんは動こうとしても思うように動くことができなかったと後年述懐している。

さらに、初代ゴジラの左腕部分は肩と密着した状態で造形されているため大きく動かすことができず、ゴジラが戦闘機を蹴散らしたり、テレビ塔に手をかけたりする場面では自由のきく右腕で演技をしていたそうだ。かように重すぎる上に動きにくかった最初のゴジラだが、これがフィルムとして映し出されると異様な重厚感がかもし出され、東京の街を破壊し、焼き尽くすゴジラの恐怖がぞんぶんに表現され、『ゴジラ』は初公開から60年以上の時を経てなお、特撮怪獣映画の不朽の名作として幅広い世代のファンから愛され続けている。

円谷英二特技監督率いる東宝特撮チームが総力を挙げて取り組んだ『ゴジラ』は大ヒットを収め、これを受けて早々と続編『ゴジラの逆襲』(1955年)が作られた。この作品では、ゴジラの他にライバル怪獣アンギラスが登場し、大阪の街で2大怪獣が死闘を繰り広げる展開が見せ場となっているため、ゴジラにも初代以上にアクティブな演技が求められた。

そこで造形スタッフは、ゴジラ役の中島さん、アンギラス役の手塚さんのボディサイズを測り、いわゆるオーダーメイドの要領で身体にフィットする怪獣スーツを作ることにしたという。素材も比較的軽い、新開発のラテックス(合成ゴム)が使われている。初の怪獣同士の死闘となった本作では、中島さんは時代劇映画の立ち回りで培った経験を生かし、アンギラスとただぶつかるだけでなく、にらみをきかせて間合いを取るなど、緩急をつけたアクションを意識していたそうだ。まさにスーツアクションとはスーツの重量に耐えうる体力と、怪獣に生命を与える演技力の両方が求められる、非常に俳優としての技量がものを言う仕事だといえよう。

その後も中島さんは『空の大怪獣ラドン』(1956年)のラドン、『地球防衛軍』(1958年)のモゲラ、『モスラ対ゴジラ』(1964年)のゴジラなど、怪獣のスーツアクションを多く務め、円谷監督からも絶大な信頼を得るスーツアクターの座を勝ち得ている。『モスラ対ゴジラ』のゴジラ出現シーンは、埋め立て地の泥の中から尻尾、背ビレ、頭、上半身と徐々に起き上がってくるという臨場感にあふれたもの。そのあまりの見事な「怪獣演技」に感動したスタッフたちから、思わず拍手が起こったという。

『地球最大の決戦』(1964年)、『怪獣大戦争』(1965年)、『ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘』(1966年)などで見せる"手が付けられない乱暴者だが憎めないユーモラスな部分も持ち合わせる"アクティブなゴジラ像は、まさしく中島さんの演技力なくしては成り立たないものだった。

さらには『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(1965年)の地底怪獣バラゴンや『フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ』(1966年)のガイラなどの、人間的な愛嬌など一切見せない凶暴なたたずまいも見事というほかない。特に、ゴジラの半分ほどの身長25メートル大の設定で、人間をわしづかみにして口の中に放り込み、ムシャムシャと食べてしまうガイラの演技は強烈そのもので、公開当時から今日に至るまで、多くの子どもたちに恐怖を与え続けている。

また、円谷プロ製作のテレビ映画『ウルトラQ』(1966年)では東宝怪獣のゴジラを改造したゴメスや、バラゴン改造のパゴスのスーツにも入り、劇場映画でならした大迫力の怪獣演技をそのままテレビ画面でも披露。同じく『ウルトラマン』(1966年/ネロンガ、ガボラ、ジラース、キーラ)『ウルトラセブン』(1967年/ユートム)でも、人々の心に残る人気怪獣のスーツアクションを務めた。

円谷英二特技監督が亡くなった1970年以後も、新体制となった東宝特撮映画で怪獣演技を続けていた中島さんだったが、東宝が俳優専属制度を廃止したことに伴い、俳優からの引退を決意する。1972年の『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』が、中島さんにとって最後の怪獣映画となった。

筆者は2013年にマガジンハウスから発行されたムック『大人のウルトラマン大図鑑』にて、ウルトラマン役を務めた古谷敏さんと中島さんとの対談記事を担当させていただいたことがある。同じ元東宝専属俳優の先輩・後輩の間柄である中島さんと古谷さんが、怪獣とウルトラマンよろしく向かい合ってファイティングポーズを取る、といったグラビア撮影の合間、ご機嫌のよかった中島さんがいきなり両腕を大きく上げながら、何やらグルグルと回し始めた。その特徴的な動きを観て一目で気づいたが、中島さんはそのとき『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)でヘドラに見せたゴジラの威嚇アクションを何気なく再現していたのだ。

中島さんのゴジラ演技がまさに円熟期に入ったころの『ゴジラ対ヘドラ』『ゴジラ対ガイガン』では、もうゴジラのスーツの中に人が入っているという感覚はなく、ナチュラルな雰囲気で中島さんがゴジラそのものと一体化している印象を受けた。そのゴジラアクションの極意は、何十年経っても中島さんの身体にしっかりとしみついていたのだと、改めて実感した出来事だった。

近年は特撮雑誌のインタビューに答えたり、自伝本『怪獣人生』(洋泉社)を上梓したり、怪獣ファンのイベントにトークゲストとして出演したりと、元祖ゴジラ俳優として活躍を続けていた中島さんは、とりわけアメリカで行なわれるゴジラファンによる大規模なコンベンションに行くことを楽しみとしており、つい先日も『ゴジラ2000ミレニアム』(1999年)などでゴジラを演じた喜多川務さんたちと共に、アメリカのファンの前に姿を見せたばかりだった。日本の怪獣ファンだけでなく、世界にも「ミスター・ゴジラ」としてその名をとどろかせた中島さんの素晴らしき仕事は、これからもゴジラを愛する人々によって永遠に語り継がれていくに違いない。