機械製造や保守メンテナンスを行う企業にとって、現場の安全対策は重要な課題だ。その安全教育には、再現映像や講師を招いた集合研修などが行われることが一般的だが、どれも現場のリアルな危険性を伝えきれないのが課題だ。東日本旅客鉄道株式会社(以下、JR東日本)東京総合車両センターでは、新たな安全教育のツールとしてVRの活用を始めた。

走行する電車に衝突する瞬間を再現したコンテンツなど、車両の点検・整備作業を行う施設で実際に発生し得る事故をVRで再現。コンテンツの視聴、疑似体験で座学では伝えきれない事故の恐怖を再認識させ、安全意識の向上を図っている。

触車を疑似体験できるVRコンテンツ

ヘッドセットにスマホをセット(画像右側)し、VRコンテンツを視聴する

同社が制作したVRコンテンツは、ソフトバンクとの共同開発によるもので、視聴はヘッドマウントにスマホをセットし、スマホのインハウスアプリから再生する。車両センター内で三大労災といわれる「触車・墜落・感電」のうち、触車と墜落を疑似体験できる内容で、グループ会社を含めた約1,200名の社員が視聴を予定している。2017年4月より展開したところ「事故の恐怖をリアルに体験できた」と、早速視聴した社員から好評を得ている。

東京総合車両センター内でVRコンテンツの体験会を実施

新たな安全教育手法を模索

東日本旅客鉄道株式会社 東京総合車両センター 総務科 科長 岩原 照実氏

「現在の教材ではリアルな危険を体感してもらうのにはどうしても限界があった」と語るのは、東京総合車両センターの岩原 照実氏。

JR東日本は、1987年の会社発足当初から安全を経営の最重要課題と位置づけ、映像や資料を使った定期的な教育で安全意識の向上に取り組んでいる。2015年には、「危険とは何か」「ルールを守るとはどういうことか」など、安全の大切さを実際の車両や機器を使って体験する「安全体感道場」を車両センター内に設立し、高電圧をかけて回路を短絡(ショート)させてしまうなどの再現可能な事故を疑似体験してもらっていますが、事故の設定がどこかリアリティに欠ける内容ではないかという疑問や、死亡につながる重大事故の危険性を伝えたい思いから、新たな教育手法を模索していた。

「弊社は以前より安全対策に注力し、様々な工夫や研修を通して事故の発生を最小限にする取り組みを行ってきました。その甲斐あって昔と比べ安全レベルは格段に上がっていますが、その一方で若手社員が重大事故の恐怖を感じる機会が減ってきています。ベテラン社員が年々減少していく中、その恐怖を伝える者も減り、若い世代にどうリアルに事故の危険を伝えていくかが課題となっていました」と岩原氏は話す。

そこで、新たな安全教育を検討するプロジェクトが発足し検討が進んだ。CGを使った映像制作や車体のモックアップを作り事故を再現するなど多数の意見が出る中、リアリティを追求した結果VRの活用に辿り着いた。

東日本旅客鉄道株式会社 東京総合車両センター 総務科 車両技術主任 飛松 啓司氏(当時)

「重大事故の危険を再現しつつ体感する側は絶対にケガをしない必要性があったので、現実世界の限界を超えるために、バーチャルの力を借りる必要がありました。」と、プロジェクトの主力メンバー飛松 啓司 氏はVRの活用背景を話す。

効果的なVRコンテンツの制作方法

VRコンテンツの制作を行う企業に声をかけた結果、コンテンツの制作から配信プラットフォームまでの一元提供が可能なソフトバンクと取り組むことを決めた。

「事故を疑似体験できる”安全体感道場”へは全国の社員が研修に訪れています。今後は、そうした移動時間やコストを無くすために場所を問わずどこからでも最新のVRコンテンツを視聴できる環境を構築したいと考えていました。そのため、機器やVRコンテンツの制作だけでなく、配信プラットフォームの構築までを提案したソフトバンクと本プロジェクトを進めることに決めました。」(飛松氏)

その後、上層部の承認を得るためにコンンテンツの試作品作りからスタートした。撮影は、同社の要望に合わせ撮影手法や撮影会社をソフトバンクがアレンジした。

VR映像撮影風景

「最初の試作品は、走行する電車に近接した場所にカメラを設置し迫り来る電車の危険性を体験するコンテンツと、高所作業車の一番上にカメラを取り付け、作業車を下げていくことで墜落を体験するコンテンツでした。墜落を擬似的に再現した映像は、かなりリアルな出来栄えだったのに加え、実作業に結びつく内容で非常にインパクトがあり、当時の幹部からも早急に実展開を進めてほしいと言われるほどでした」(飛松氏)

上層部の承認を得て、2016年12月から本格的な制作を開始した。より現実的な内容にするためにシナリオ制作に時間をかけたと飛松氏は話す。

「単なる衝撃映像で終わらせないため、周囲に誰もいない状況や、先輩からの急ぎの指示を対応する状況など、つい規定ルールを破り省略行動をとってしまう心理描写を盛り込み、それが原因で事故を引き起こしてしまうシナリオにしました。現場の意見を取り入れる他、シナリオに合わせて再現を行うなど、10回以上の改訂を重ねシナリオを完成させました。撮影についても、どの角度で撮影するのが良いかや、どう撮影すればリアリティのある映像になるか試行を続け、練習に丸2日、本番撮影に丸3日かけ、とことんリアリティを追求しました」

そうして、制作開始から約3カ月で4つの事故を再現した約11分のコンテンツが完成した。

東日本旅客鉄道株式会社 東京総合車両センター 総務科 車両技術係 渡辺 茂氏

完成したVRコンテンツを視聴した現場スタッフの渡辺氏は感想をこう話す。

「映像を見る社員の中には、思わず声をあげてしまう方がいたほど衝撃的な内容で事故の恐怖を改めて痛感しました。触車に関しては、引かれる瞬間もそうですが、衝突した時の太刀打ちできない恐ろしさを体験し、日々の指さし確認や規定ルールを守る重要性を再認識できました。また日々の業務を想定したリアルな内容で説得力もありました」

VRコンテンツの横展開にも積極的

「当社のグループ会社や駅設備のメンテナンスをする会社など、どの企業にとっても安全をどう伝えるかは共有の課題です。今回、企画から完成まで綿密な打ち合わせを行いコンテンツを制作したので、そのノウハウや教材の共有で鉄道業界全体の安全性向上につながればと思っています」と岩原氏は制作ノウハウの横展開にも意欲的だ。さらに、今後の展開についてはこう続ける。

「3月にコンテンツが完成し、現在は順次視聴を進めている状況のため、次回のコンテンツ制作は少し先になりそうですが、いずれは、安全教育という分野だけでなくベテラン社員の技術伝承にもVRを活用できればと考えています」

単なる衝撃映像で終わらせない工夫を凝らした同社のVRコンテンツは間違いなく社員の心に残る教材になるはずだ。コンテンツの制作にこそ時間はかかるが、同社が採用したヘッドセットにスマホを装着させるタイプの視聴機器は他のVR専用の視聴機器と比べ、汎用性が高く、価格も安価なため、費用対効果は十分にあるだろう。また、機器とスマホさえあれば場所を問わずVRを体験できる点も全国に社員がいる同社にとって大きなメリットだ。同社へは多数の問い合わせが寄せられており、今後教育の分野においても益々VRの活用が進むのではないだろうか。