(C) 大貫剛

世界一周飛行中のクラシック飛行機「ダグラスDC-3」が今、日本を訪れている。77年前に製造されたこの機体は丁寧に整備され、スポンサーの腕時計メーカーの名を冠して「ブライトリングDC-3 ワールド・ツアー」と銘打って、本拠地のスイス・ジュネーブから東へ世界各地を歴訪し、熊本を皮切りに岩国、神戸、福島、仙台、帯広を訪問する。また千葉で開催されるレッドブル・エアレースでは、同じ保存機の零戦と共にデモフライトをする予定だ。

零戦よりやや早い1936年に運航を開始、第2次世界大戦でも輸送機として活躍したDC-3は、零戦とは「同時代機」と言えるだろう。そして画期的な性能で、現代につながる商業航空輸送を切り拓いた歴史的な航空機だ。

筆者はこのDC-3を見学し、体験搭乗するという貴重な機会を得ることができた。そのレポートとともに、DC-3がどんな航空機かを解説しよう。

世界初、商業旅客機の誕生

DC-3を一言で言えば「世界で初めて、商業的に成功した旅客機」だ。メーカーのダグラス社は現在はボーイング社に吸収されて存在しないが、戦前から戦後にかけてはボーイング社と覇を争った、アメリカを代表する航空機メーカーのひとつだ。特に、B-29爆撃機の製造メーカーであるボーイングを嫌った日本では、戦後多くのダグラス機が導入されている。近年までDC-9やDC-10とその改良型が日本の航空会社で就航していたことは記憶に新しい。

DC-3の元になったDC-2。見た目の違いはあまりないが、胴体の太さを変えるだけで歴史的傑作機を生み出すことになった (出所:アメリカ国会図書館)

ダグラスは1933年に試作機のDC-1、旅客機のDC-2を製造して本格的に旅客機市場に参入した。当時、アメリカ大陸横断と言えば鉄道であり、その運賃と対抗して旅客機を飛ばしても赤字になるため、航空会社は国から郵便の運搬を請け負うことで採算をとるのが常識だった。

そんな頃に、アメリカン航空からダグラスに「寝台飛行機を製造して欲しい」とう依頼が入る。プロペラ機でアメリカ大陸を横断するにはまる1日を要していたからだ。DC-2は通路を挟んで左右に1席ずつ、縦7列で14席の旅客機だが、これをベッドにすると幅が足りない。そこで、胴体の幅をDC-2の1.7mから2.3mに広げて、14名分のベッドを設置したのが「ダグラス・スリーパー・トランスポート」、DC-3だった。

横4列の詰め込み仕様でも、現代のエコノミークラス並みの広さがある。昔の飛行機は豪華だったのだ (C)大貫剛

寝台飛行機として誕生したDC-3だったが、ベッドを取り付けない座席型も同時に製造された。座席型DC-3の運航費用はDC-2より1割しか増えなかったが、幅が広くなったぶん横3列縦7列の21名を乗せることができたので、運賃収入は5割増えた。さらに座席幅を減らして4列席とした28人乗り、前後に詰めた32人乗りまで登場したが、運航費用は増えない。こうして、郵便輸送費という国からの補助金を得なくても黒字運行可能な初めての旅客機が誕生したのだ。

大戦で大量生産、戦後の大量放出で航空旅行時代へ

さらにDC-3は軍用輸送機としても大量に使われる。アメリカ軍やその友好国はもちろん、1930年代に製造ライセンス契約を結んだ日本の昭和飛行機では設計を日本仕様に改めたうえ、帝国海軍に「零式輸送機」の名前で納入された。全世界で製造されたDC-3(軍用型を含む)は16000機にも及び、これは輸送機としては空前の数だ。なお、現在多く見掛ける旅客機「ボーイング737」の生産機数は1万機弱で、737が初飛行から50年を経て現在も製造されているのと比べると、DC-3がわずか15年ほどの間にこれほど生産されたのは驚異的だ。

そして第二次世界大戦が終わると、軍で大量に使用されていたDC-3と、そのパイロットや整備士までもが民間に放出された。低価格の中古機と熟練の人材が、戦後の民間航空を一挙に発展させる。日本でも日本航空や日ペリ航空(全日空の前身)が導入したほか、海上自衛隊も米軍中古機を導入した。

体験! 現代の旅客機の基本を作ったDC-3

さて、DC-3の試乗をレポートしつつ、DC-3の特徴を解説よう。筆者が搭乗したのは5月19日金曜日、神戸空港から大阪市内への遊覧飛行だ。

神戸での活動拠点は、神戸空港の人工島内にあるヒラタ学園 (C) 大貫剛

DC-3と現代の旅客機を比較すると、当然だが共通点と相違点があることがわかる。最大の共通点は、機体全体のレイアウトではないだろうか。旅客機として重要な広い胴体と、その下方に取り付けられた主翼(低翼式)。そして主翼に取り付けられたエンジンとプロペラだ。当たり前だと思うかもしれないが、かつては主翼が上に付いていたり、エンジンが鼻先に付いていたりもしたのだ。騒音と振動、そして発熱のもとであるエンジンを胴体から離すことは乗り心地に重要だし、低い位置の方が整備しやすい。丸い鼻のコックピットも、現代のジェット旅客機とほとんど違わない雰囲気だ。

胴体の下の主翼に取り付けられたエンジン、丸顔に2枚ガラスの風防などは現代の旅客機と大きく違わない。ただ細かく見ると、丸いリベットがずらりと飛び出している。零戦で導入されたことでも知られるフラットな沈頭鋲は未採用だ (C) 大貫剛

もちろんこれらの特徴はDC-3が最初に導入したわけではないが、80年以上前に現代の旅客機の原型がほぼできていたことには感嘆を禁じ得ない。全体的なフォルムは古さを感じさせず、今も製造されていてもおかしくないと思えるほどだ。

飛行中のシルエットはジェット旅客機と比べるとずんぐりむっくりした印象も受けるDC-3だが、地上では意外にスマートに見える。頭を上げた尾輪式の姿勢は、空を見つめているかのようだ (C)大貫剛

一方で異なる点も多い。外見上の最大の違いは「尾輪式」という構造だ。航空機は、重心に近い主翼の下に「主輪」を取り付け、離着陸時にはこの主輪を軸に上下に向きを変えることができる。現代の旅客機のほとんどは「前輪式」と呼ばれ、主輪を重心よりやや後ろに取り付け、前につんのめらないよう機首に「前輪」を取り付ける。

これに対してDC-3は、主輪を重心より前に取り付け、尻もちをつかないように「尾輪」を取り付けている。こうすると尾輪は胴体からほとんど飛び出さないため、空気抵抗が少なく構造も簡単だ。DC-3の場合、主輪だけが引き込み式になっている。これは、やはり尾輪式の零戦でも同じだ。現代の旅客機は主輪と前輪の両方を引き込んでいる。

尾輪式のDC-3は着陸時、機体後部が下がっているから、乗り降りがしやすい。今回のDC-3は後部ドアの裏面が階段になっており、ドアを開くだけでタラップになって乗り降りできる。ただ、機内に入るとこの床の傾斜が大きく、目の錯覚で感覚が狂って、よろけてしまう。当時は客室乗務員なども苦労したようだ。

現代の多くの空港では、ターミナルビルから直接乗り込めるボーディングブリッジが整備されているため、乗降ドアの高さより機内が平らであることの方が重要だろう。しかし、地上にあっても空を見つめるように機首を上げ、大きく翼を広げるDC-3の姿は、現代の飛行機にはない活き活きとした力強さを感じさせた。

レトロな機内とガソリンエンジンの香り

機内はDC-3としては詰め込み仕様の横4列座席だが、現代の感覚だと狭くは感じない。1930年代の大陸横断旅行の贅沢さを考えれば「全員がファーストクラス」のようなもので、現代よりずっと広い作りが当然だったのだろう。この4列仕様では最大32席が取り付け可能だが、中央の前後3列は取り外されて、何もない広い空間になっている。これは世界1周の途中で長距離を飛行しなければならない場合に、床上に補助燃料タンクを装備するスペースとのことだ。

内装はリニューアルされているものの、窓上の木の手すりと白い壁面は往時のイメージに合わせている。座席上の荷物入れは当時からなかったそうだ。後に帽子掛けから棚に発展したという経緯があり、現在も旅客機の荷物棚は「ハットラック」と呼ばれている。

特徴的なのは、大きな四角い窓だ。木枠のついたレトロな窓は眺望も抜群だが、現代ではほとんど見ることがない。これは、現代では空気の薄い高高度を飛行するために機内を与圧(空気の圧力を高めること)しているため。初期のジェット旅客機では、機内の圧力で四角い窓の隅から機体に亀裂が入り空中分解する事故が続発したため、窓の四隅は丸くするようになったのだ。

エンジンは当時のベストセラー、プラット・アンド・ホイットニーR1830-92「ツイン・ワスプ」を2基搭載。現代の旅客機はプロペラ機でもタービンエンジンのため燃料は灯油に近く、空港では石油ストーブのような排気ガスの匂いが漂う。しかし、この1200馬力のガソリンエンジンの排気ガスは、まさに自動車の匂いだ。「ドルン、ドルルルルルル」という、少し息をつくようなアイドリング音と振動はクラシックカーを思わせる。またタービン機と異なり、10分程度の暖機運転も必要だ。

機内でスタッフの方にまっすぐ立って頂いた。視覚と実際の角度の差で、気を抜くとよろけてしまう (C)大貫剛

窓の外の景色と見比べても傾きがわかるだろう。機内中央の3列分の座席は外されており、長距離飛行時には燃料タンクを搭載する (C)大貫剛

アグーロ機長自ら離陸前の挨拶。当時の空の旅もこうやって始まったのだろうか (C)大貫剛

機体後部が下がっているため、ドアを下へ開くと裏側の階段で乗り降りできる。古い機体を傷めないよう、乗降は1人ずつ (C)大貫剛

エンジンを始動すると、自動車のエンジンのような白い排気ガスがガソリンの匂いを漂わせる (C)大貫剛

いよいよ飛行! 「歌うようなエンジン」と極上の乗り心地

尾輪式のDC-3は機首を高く上げたまま滑走路へと向かう。神戸空港のターミナルビルは屋上全体が展望デッキで、その全体に鈴なりのファンが並んでいるのが機内から見えた。この体験搭乗がどれほど貴重なものか、身が引き締まる。

滑走路に入りエンジン音が上がる。離陸速度160km/hのDC-3にとって、神戸空港の2500mの滑走路は充分に長い。滑走距離を短縮する装置であるフラップを使わず、一気に加速して悠々と離陸していく。現代から見れば小さなDC-3だが、その乗り心地は意外なほど安定していて、揺れはほとんど感じない。

フライト前に客室乗務員役の担当者から「DC-3のエンジン音は、歌を歌っているようだとも言われている」と聞いていたが、巡航に入るとその意味が分かった。「ブーン、ウーン、ブーン、ウーン」と1秒ほどの周期で、エンジン音が高低しながらうなる。本当に、鼻歌を歌っているようだ。エンジンに詳しい人なら共振などの理由が思い浮かぶのだろうが、その点は素人の筆者には、心地よさしかない。一定の回転数のまま低くうなり続けるエンジン音は、乗用車やバスなどの自動車より、鉄道のディーゼルカーや船舶のエンジン音を思わせる。ジェット機とはまったく違う「しっとりとした」乗り心地だ。

DC-3は神戸空港を離陸すると、左に神戸市街と六甲の山々を見ながら東へ飛行し、大阪市内へ入ると難波付近で左旋回、尼崎から神戸へと海岸付近を飛行した。飛行高度は300m程度とのことで、これはあべのハルカスの屋上展望台とほぼ同じだ。そしてDC-3の巡航速度は250km/hで、ジェット機の着陸の瞬間の速度とほぼ同じ。これほど低い高度、低い速度で阪神地域の遊覧飛行ができるとは、なんと素晴らしいことだろうか(DC-3以外でも、筆者は遊覧飛行などしたことはないが)。そしてDC-3の大きな木の窓と、歌うようなエンジン音、しっとりとした乗り心地。遊覧飛行機としてDC-3は極上だと断言できる。

神戸の街と六甲の山々を見ながら東へ進み、大阪市中心部で旋回する。歌うようなエンジンサウンドと、しっとりとした乗り心地で、プロペラ機ならではのゆっくりした低空飛行。極上の遊覧飛行だ (C)大貫剛

長くもあり短くもある30分の遊覧飛行を終え、DC-3は神戸空港に戻った。ネットを検索すると、神戸空港だけでなく阪神地域の多くの人がDC-3を見上げて写真を撮ったりしていた。高度はわずか300m、真下にいれば空港ターミナルより近くから見えたことだろう。

機内から見た神戸空港ターミナルビル。屋上の展望デッキには、カメラを構えたファンが隙間なく並ぶ (C)大貫剛

1時間の飛行に100時間の整備、オリジナルDC-3の苦労

着陸後、フランシスコ・アグーロ機長がインタビューに応じた。アグーロ機長はクラシック機の保存に力を入れているが、元は滑走路が整備されていない原っぱの飛行場などに人や貨物を輸送する「ブッシュパイロット」として活躍していたという。DC-3も、このようなフライトに数多く使用されてきた機体だ。

DC-3は約16000機が生産されたが、現在も飛行可能な機体は150機程度。生産から70年以上経て部品の入手は困難になっており、飛行している機体の一部はエンジンなどの主要部品を新型に交換したりしており、オリジナルを保った機体は100機程度だという。今回のDC-3はその、オリジナルを保った機体だ。エンジンやプロペラはもちろん、操縦系統も当時のままの完全手動のため、風が強いときには特に腕力を要すると言う。

ただし、変更されている点も、大きく分けて2つある。ひとつは無線機やGPSナビゲーションなどで、これは現代の空を安全に飛行するためには仕方のないところだろう。コックピットにはデジタルの機器が散見されるが、自動車のハンドルのような丸い操縦桿や、重機のレバーのようなエンジン操作レバーは往時のままだ。もうひとつは機内の座席で、これも航空当局の許可を得るために安全上必要だったとのこと。とはいえレトロな雰囲気の内装と合わせ、違和感はない。

コックピットは基本的にオリジナルだが、中央にはデジタルのナビゲーション画面や無線機が設置され、左側の機長席の計器も一部は近代化されているようだ

プラット・アンド・ホイットニーR1830-92「ツイン・ワスプ」エンジン。新型エンジンに換装された機体もある中、ブライトリングDC-3はオリジナルを保っている。交換用部品の入手は年々難しくなっているという

ただ、古い部品のため整備は大変だという。飛行機では一般に、飛行時間1時間に対して必要な整備時間を目安としているが、このDC-3は100時間を要するという。実際、世界一周の途中ではシンガポールで3週間もの整備が行われたそうだ。

エンジンカウルの後方に取り付けられた主脚と主輪。飛行中はタイヤの半分が埋め込まれるように引き込まれる (C)大貫剛

尾輪式航空機の特徴、短い尾輪。離陸の際はまず尾部を持ち上げて機体を水平にし、充分に加速してからもう一度機首を上げる (C)大貫剛

とはいえ、アグーロ機長が神戸を飛ぶのは初めてとのことで、晴天に恵まれた美しい港町の空にDC-3の雄姿を披露できたことに満足の笑顔を浮かべていた。

客室窓に仕込まれた非常口と、主翼上の避難経路表示は現代の旅客機と違わない。主翼はエンジン部分までは真横向き、外側は上向きになっており、折れ曲がる位置の継ぎ目はごつごつとしたボルト止めのフランジが目立つ。胴体の背中には各種アンテナが追加されている (C)大貫剛

航空機愛好者の手で飛び続けるDC-3

ところでこのDC-3のフライトが高級腕時計メーカー「ブライトリング」のキャンペーンであることや、レッドブル・エアレースでのデモフライトを予定していることは良く知られている。しかし、そもそもこのDC-3はどうして保存されているのかはあまり知られていないのではないだろうか。

DC-3を保存しているのはスイスのNPO法人「スーパーコンステレーション飛行協会」だ。その名の通り、戦後を代表するプロペラ旅客機「ロッキード・スーパーコンステレーション」の保存会であり、さらにDC-3も保存している。スタッフはパイロットや整備士なども含め、実際に航空機運用に携わってきたベテランの航空機愛好者だ。

このNPOには、Webによれば年間120ユーロ(15000円ほど)の会費で参加できる。現在の参加者は3500人ほどとのことだ。そして法人スポンサーも複数あり、最大のスポンサーがブライトリングなのだ。つまりこのDC-3は、純粋に飛行機を愛し、レシプロ旅客機の金字塔とも言える「ダグラスDC-3」「ロッキード・スーパーコンステレーション」を飛行可能な状態で保存することに私費を投じたいという人々の手で、日本までやってきた。

機長のフランシスコ・アグーロ氏(中央)と副機長のラファエル・ファブラ氏(右)、キャビンアテンダントの志太みちる氏(左) (C)大貫剛

今回の世界一周飛行はブライトリングのキャンペーンであり、高級時計の購入者などを対象として試乗会が開催されているのだが、それだけではない。日本国内での寄港地の中には熊本、神戸、福島、仙台が選ばれており、地元の子ども達の試乗イベントなども計画されている。言うまでもなくこれらの地域は、大震災の被災地だ。「みんなで飛行機を見上げて笑顔になろう」という、航空機愛好者からのプレゼントなのだ。

神戸海洋少年団の子ども達が、空の旅を楽しんだ。小さなDC-3も大きく見える (C)大貫剛

欧米ではこういった、愛好者が資金を出し合って保存する航空機がたくさんある。まさに、市民による「技術遺産」の保護だ。その動機は「我々が大好きなものを多くの人に楽しんでもらい、次世代に受け継いでいく」ということに他ならない。自分だけの所有物ではなく、世界的な遺産の共同所有者として個人の財布からお金を出すという「ぜいたく」は、日本ではまだ馴染みが薄いかもしれない。

乗降口の周囲には、ブライトリング以外にも多くの企業ロゴが記入されている。個人の支援メンバーも数多くいて、DC-3を次の世代へ受け継いでいく (C)大貫剛

DC-3の日本各地での飛行は、税金に頼らない文化財保護を多くの人が楽しむ、というスタイルが日本でも広がっていくきっかけになるだろうか。