4月1日より、神奈川県大磯町の旧吉田茂邸の一般公開が開始される。吉田茂元首相(1878~1967年)は、戦後の混乱期に通算5期にわたり首相を務め、日本の戦後復興の礎(いしずえ)を築いた人物だ。その吉田茂が、昭和19(1944)年頃から亡くなった昭和42(1967)年までを過ごしたのが大磯の旧吉田茂邸である。

庭園から見た、再建された旧吉田茂邸(2016年12月撮影)

残念ながら、旧吉田茂邸そのものは2009年に原因不明の火災により焼失したが、その後、地元・大磯町が神奈川県からの協力を得ながら、再建事業が具体化。総工費5億4,000万円をかけ、このほど再建工事が終了した。そこで今回、生まれ変わった旧吉田茂邸の味わいとその歴史を、生前の吉田茂が愛したと言われる地元・大磯のグルメとともに紹介しよう。

庭園の轍(わだち)にはエピソードが

旧吉田茂邸は、JR東海道線の大磯駅と二宮駅のちょうど中間地点付近の国道1号線沿いに位置し、一帯は「神奈川県立大磯城山(じょうやま)公園 旧吉田茂邸地区」として整備されている。駐車場もあるが駐められる台数が少ないので、一般公開後の混雑を考えれば、バスで訪れるのが無難だろう。大磯駅前から二宮駅方面へのバスに乗り、「城山公園前」バス停で下車すれば、入り口まで徒歩2分ほどだ。

焼失前の旧吉田茂邸玄関(2007年12月撮影/提供: 大磯町観光協会)

敷地の入口を入ると、生前の吉田がこよなく愛したというバラ園があり、その先に見えてくるのが、サンフランシスコ講和条約を記念して建てられた兜門(かぶともん)だ。この門は、幸いにも火災による焼失を免れた。

兜門をくぐるとその先には、世界的に有名な作庭家で、田中角栄邸の庭園なども手がけた中島健(1914~2000年)の設計による、池を中心とする日本庭園が広がっている。高台に登ると吉田茂の銅像が立っており、その向こうには相模湾が広がっている。

兜門と梅(2017年1月撮影)

ちなみに、兜門から庭園内に石の轍(わだち)が敷かれているが、これは昭和41(1966)年に、当時、皇太子だった今上天皇と皇太子妃であった美智子さまがご来訪した際、お車で入っていただくため、配慮して造ったものだという。しかし、実際のおふたりはお車ではなく、歩いて入られたというエピソードが残っている。

旧吉田茂邸の歴史、8回にわたる増改築

さて、邸宅を見学する前の予備知識として、旧吉田茂邸の歴史を整理しておこう。この邸宅は、明治17(1884)年、養父で横浜の豪商だった吉田健三が建てた別荘がもととなっており、大磯町郷土資料館によれば、その後、吉田健三の跡を継いだ吉田茂の手により、8回くらいの増改築が行われたという。

庭園の高台に立つ吉田茂の銅像(2016年12月撮影)

吉田茂は、昭和19(1944)年頃からこの地に住み始め、昭和20(1945)年には大磯を本邸と定めた。そして昭和20年代、吉田茂が首相だった時代に、建築家・木村得三郎(きむらとくさぶろう 1890~1958年)の設計により建てられたのが、応接間棟(1階部分が応接間、2階部分が書斎)と玄関、食堂だ。

再建された旧吉田茂邸の玄関部分(2017年3月撮影)

さらに昭和30年代には、新館(中2階、2階)と呼ばれる棟が、近代数寄屋建築で有名な建築家・吉田五十八(よしだいそや 1894~1974年)の設計により増築され、その際、玄関と食堂も改築された。吉田五十八の設計による部分は、京都の宮大工による豪壮な総檜造りで、旧吉田茂邸の外観の主要部分を成している。

首相退任後も、吉田茂のもとを訪れる政財界の要人は絶えることなく、その様子から「大磯詣」という言葉も生まれた。吉田茂は、大磯の海と山に囲まれた自然と、政財界の要人が訪れることを掛けて、自邸を「海千山千荘」と呼んでいたという。そして、昭和42(1967)年10月20日、吉田茂は新館の寝室「銀の間」で息を引き取り、終焉の地となった。

吉田茂が晩年を過ごした新館2階の「銀の間」(2017年3月撮影)

吉田茂の死後、邸宅は2009年3月、原因不明の出火によって焼失。この事態を受けて大磯町は「大磯町旧吉田茂邸再建基金」を設置し、寄付を募った。その基金が一定額に達したことから、2012年に神奈川県と協定を結び、再建事業が具体化する。その後、2015年に再建工事がスタートし、総工費5億4,000万円をかけ、2016年に工事が完了した。

今回の再建工事では、大正時代に建てられ、焼失時も残っていた建物は再建せず、応接間棟、玄関、食堂、新館部分のみを再建工事の対象とし、これに付随する形で、休憩コーナーや事務室、エレベーターなどを設置した。また、地階に存在したワインセラーも再現せず、研修室としている。

邸宅が歩んできた歴史を知ったところで、今度は実際に、邸宅内部を順に見ていこう。