米国初の地球周回飛行を成し遂げ、史上最高齢の77歳で宇宙飛行を行った記録も持つ元宇宙飛行士のジョン・グレン氏が、12月8日(米国時間)にオハイオ州立大学の病院で亡くなった。95歳だった。

グレン氏は1921年生まれで、戦闘機パイロットとして第二次世界大戦や朝鮮戦争に参加。その後NASA最初の宇宙飛行士の一人に選ばれ、1962年に米国初の地球周回飛行に成功。その後は上院議員として活躍し、さらに1998年にはスペース・シャトルに乗り、77歳にして2度目の宇宙飛行にも飛び立った。

発表や報道によると、グレン氏は1週間ほど前から体調を崩して入院しており、妻のアニー氏ら家族に見守られながら息を引き取ったという。米国航空宇宙局(NASA)はWebサイトやSNSなどを通じて哀悼のコメントを発表。またバラク・オバマ大統領をはじめ、多くの人々が彼を讃え、その死を惜しんでいる。

マーキュリー計画当時のジョン・グレンさん (C) NASA

ジョン・グレンさんが搭乗したマーキュリー宇宙船「フレンドシップ7」の打ち上げ (C) NASA

マーキュリー計画

グレン氏は1921年7月18日、オハイオ州で生まれた。そして1943年に海兵隊に入隊し、レシプロ戦闘機のパイロットとして第二次世界大戦に参加した。その後はジェット機にも乗り、朝鮮戦争に参加して、敵のミグ戦闘機を撃墜している。

この朝鮮戦争を契機のひとつとして、米国とソヴィエト連邦(ソ連)は対立を深めた。両国は核兵器の開発を急ピッチで進め、それを相手の国まで飛ばすための手段となるミサイル(ロケット)の開発も進めた。米国とソ連は第二次大戦後、それぞれ異なるアプローチでドイツからロケット技術を手に入れており、そして独自に進歩させていったのである。

しかし、実際にミサイルが完成しても、相手に直接撃ち込めば核戦争になるため、両国は備えこそすれ、それを簡単に起こすつもりはなかった。また、ミサイルを改良すれば人工衛星を打ち上げることができ、偵察や通信、気象など、軍事行動にとって重要な情報を手に入れられる可能性があった。

そこで両国はほぼ同時期にミサイル開発の延長線として宇宙開発を始め、直接戦火を交えない代理戦争として、宇宙開発において競争が始まることになった。

米国は当初、ロケット開発の足並みが揃わず、主に米陸軍と海軍が足の引っ張り合いを続けた。それを尻目に、ソ連は1957年に世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功。さらに約1カ月後には犬を載せた「スプートニク2」の打ち上げにも成功した。スプートニクの打ち上げから遅れること約4カ月後の1958年1月31日、米国も初の人工衛星「エクスプローラー1」の打ち上げに成功したが、世間からすれば米ソの宇宙技術、ひいてはミサイル技術の差は大きなものと捉えられた。

無人の人工衛星が打ち上げられた以上、次の両国の目標は初の有人飛行だった。1958年1月には、米国の宇宙開発を一挙に引き受ける米国航空宇宙局(NASA)が設立されることになり、同年7月29日に発足。そして10月7日には、初代長官キース・グレナンによって、米国の、そして人類初の有人宇宙飛行を目指した「マーキュリー計画」がスタートした。

NASAは宇宙飛行士を集めるため、全米で優秀なパイロットを探し、厳しい試験にかけ、1959年にNASA初の宇宙飛行士7人が選抜された。選ばれたのは、海軍出身のスコット・カーペンター、ウォルター・シラー、アラン・シェパードと、空軍出身のゴードン・クーパー、ガス・グリソム、ドナルド・スレイトン、そして唯一の海兵隊出身であるグレン氏だった。

この7人は尊敬の念を込めて「マーキュリー・セヴン」、もしくは「オリジナル・セヴン」と呼ばれた。彼らは訓練を重ね、人類初の有人飛行の日を待ち望んだ。

マーキュリー・セヴンの7人。右上の蝶ネクタイをして立っているのがジョン・グレン氏 (C) NASA

マーキュリー宇宙船は1人乗りの小さな宇宙船である (C) NASA

しかし、初の打ち上げを間近に控えた1961年4月12日、ソ連が人類初の有人宇宙船「ヴォストーク」の打ち上げに成功。ヴォストークとそれに搭乗したユーリ・ガガーリン飛行士は地球を約1周して、地球に帰還した。米国は人工衛星に続き、またしてもソ連に世界初の栄誉をもっていかれることとなった。

その約1カ月後の5月5日、米国はシェパード飛行士が乗ったマーキュリー宇宙船「フリーダム7」の打ち上げに成功し、なんとか面目を保つが、地球をまわる軌道に乗ったソ連のヴォストークとは違い、フリーダム7はただ真上に飛んで落ちてくるだけの弾道飛行であり、飛行時期はともかく、技術的にはまだ大きな差があった。同年7月21日にはグリソム飛行士が乗った「リバティ・ベル7」も打ち上げられるがこれも弾道飛行だった。一方のソ連はその約1カ月後の8月に、ゲルマン・チトーフ飛行士が乗った「ヴォストーク2」を打ち上げ、丸1日という長時間の飛行に成功。両者の差は開く一方だった。

マーキュリー・フレンドシップ7

フリーダム7が打ち上げられた約2週間後の1961年5月25日、ケネディ大統領は「この10年が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という有名な演説を行い、この宣言を実現させるためNASAは「アポロ計画」を開始した。そしてマーキュリー計画は、単に米国人を宇宙に送るだけでなく、月へ向けた第一歩という使命も帯びることになった。

ソ連の先行でまたしても遅れを取ったマーキュリー計画だが、リバティ・ベル7の次、有人では3機目となるマーキュリー宇宙船の打ち上げで、いよいよ地球周回飛行を行うこととなった。その飛行士にはグレン氏が選ばれ、1961年中に打ち上げられる予定だったものの、準備が遅れ年を越すことになった。一度は1962年1月に打ち上げが設定されるも、ロケットのトラブルや天候不良などで延期が続き、ようやく打ち上げられたのは2月20日のことだった。

マーキュリー・フレンドシップ7に乗り込むジョン・グレン宇宙飛行士 (C) NASA

マーキュリー・フレンドシップ7を載せたアトラス・ロケットの打ち上げ (C) NASA

グレン氏が搭乗した「フレンドシップ7」は無事に軌道に乗った。当初、宇宙船は基本的に自動制御で飛び、グレン氏は一時的にマニュアル操縦を試すことが計画されていた。しかし、自動制御システムにトラブルが発生し、結局マニュアルで飛ばし続けることになった。

地球を約3周し、いよいよ地球への帰還が迫ったころ、今度は宇宙船の耐熱シールドが外れかけているという警告が表示された。耐熱シールドは宇宙船の底面にあり、大気圏再突入時の高熱から宇宙船を守るためにある。もし外れてしまえば、宇宙船は燃え尽きてしまう。

地上の運用チームは検討した結果、軌道離脱のための逆噴射で使うロケット・モーターを装着したままの状態で再突入させることにした。このロケット・モーターは耐熱シールドにかぶさるように装着されており、本来は逆噴射した後に分離することになっていたが、装着したまま再突入させることで、耐熱シールドが外れないように押さえつけることができるのでは、というアイディアだった。

そしてフレンドシップ7は逆噴射を行い、軌道を外れ、目標の着水海域に向けて再突入を開始した。グレン氏が宇宙船の窓の外を見ると、いくつもの何らかの破片が飛び去っていくのが見えたという。それは熱に耐えられずに破壊されたロケット・モーターの破片だったが、グレン氏はそれを見ながら「もしかしたら耐熱シールドなのでは……」と考えてしまったという。

やがてフレンドシップ7は無事に再突入を乗り切り、大西洋上に着水。待機していた駆逐艦によって回収された。後の調査で、耐熱シールドが外れかかっているという警告は誤りで、実際はしっかりとくっついてたことがわかっている。

この飛行によるグレンさんの宇宙での滞在時間は約4時間48分。時間に差はあれど、ともかくソ連と同じ有人宇宙船の軌道周回に成功したことで、米国は徐々に自信を取り戻しつつあり、そしてアポロ計画への道が拓かれつつあった。

フレンドシップ7の中からグレン飛行士が撮影した地球 (C) NASA

着水し、回収されるフレンドシップ7 (C) NASA

史上最高齢で宇宙へ

マーキュリー計画はフレンドシップ7の飛行後に3回、計画全体では計6回の有人飛行を行った後に終了し、やがて本格的な宇宙飛行ができる2人乗りの「ジェミニ」宇宙船の運用が始まった。そしてほぼ同時期に、月まで行ける大型の宇宙船「アポロ」と、それを打ち上げる巨大ロケット「サターンV」の開発も進められ、1969年には「アポロ11」で初の有人月着陸に成功し、ソ連に完全な勝利を収めた。

アポロ計画には新しい世代の宇宙飛行士はもちろん、マーキュリー・セヴンのうちの何人かも深く関わったが、グレン氏はそれには加わらず、フレンドシップ7の飛行から2年後にNASAを退職し、米上院議員選挙に出馬していた。このときは自宅での怪我が原因で撤退するも、1974年に初当選し、その後25年間にわたり議員を続けた。1984年には大統領選挙にも立候補したが、民主党からの指名が得られず、撤退している。

上院議員として活躍を続ける最中、グレン氏は再び宇宙へ行くことになった。一説には、グレン氏はかねてよりもう一度宇宙飛行をしたいと考えており、ロビー活動を行っていたとされる。そして訓練を経て、1998年1月、NASAのゴールディン長官は、スペース・シャトル「ディスカヴァリー」のSTS-95ミッションのクルーとしてグレン氏を指名した。

STS-95ミッションのクルー。一番右にグレン飛行士、また中央には日本人の向井千秋飛行士が写っている (C) NASA

T-38練習機による訓練を元気に受けるグレン飛行士 (C) NASA

フレンドシップ7の飛行から36年が経った1998年10月29日、グレン氏ら7人の宇宙飛行士を乗せたSTS-95ディスカヴァリーは宇宙へと旅立った。9日間にわたるミッションで、グレン氏は自身の老体そのものを活用し、飛行中にさまざまな生理データを取得。将来の高齢者の宇宙飛行の可能性や、人体の老化現象そのものを解明するのに役立つことが期待された。またこのとき、日本人の向井千秋宇宙飛行士も搭乗しており、グレン氏の飛行やデータ収集を手助けしている。

STS-95ディスカヴァリーは11月7日に着陸し、ミッションは成功。このときグレン氏は77歳で、世界最高齢での宇宙飛行となり、この記録は現在まで破られていない。

STS-95ディスカヴァリーの打ち上げ (C) NASA

軌道上でのSTS-95ディスカヴァリー (C) NASA

真のアメリカの英雄

グレン氏の死を受け、NASAは「地球周回飛行を成し遂げた最初の米国人であるジョン・グレンさんに哀悼の意を表します。あなたは真のアメリカの英雄です。どうか幸運を、ジョン・グレン。星をめざして」とコメントしている。

またバラク・オバマ大統領も「ジョンの死により、我が国はアイコンを、そして私と妻ミシェルは大切な友人を失いました。彼は人生を通じて、あらゆる障壁を打ち破ってきました。第二次大戦と朝鮮戦争では海兵隊の戦闘機パイロットとして自由を守るために戦い、大陸横断飛行の最短記録を作り、そして77歳という世界最高齢で宇宙へ行き、星に触れたのです」と、その死を惜しむ声明を発表している。

なお、ほかのマーキュリー・セヴンの面々のうち、グリソムは1967年に、アポロ宇宙船の試験機「アポロ1」の試験中の事故で死亡。またスレイトンは1993年、シェパードは1998年に、クーパーは2004年に、シラーは2007年に、そしてカーペンターも2013年に亡くなっており、マーキュリー・セヴンの7人は全員、星へ旅立ったことになる。

【参考】

・Passing of John Glenn
 http://johnglennhome.org/passing-of-john-glenn/
・Profile of John Glenn | NASA
 https://www.nasa.gov/content/profile-of-john-glenn
・NASA Remembers American Legend John Glenn | NASA
 https://www.nasa.gov/press-release/nasa-remembers-american-legend-john-glenn
・STS-95
 http://science.ksc.nasa.gov/shuttle/missions/sts-95/mission-sts-95.html
・NASAさんのツイート: "We are saddened by the loss of Sen. John Glenn, the first American to orbit Earth. A true American hero. Godspeed, John Glenn. Ad astra. https://t.co/89idi9r1NB"
 https://twitter.com/NASA/status/806960800669794305