その晩は宴席があって、遅く帰って来た。新聞を読みそこなったのでざっとめくっていると、アップルが新製品発表とある。ふむふむ、やはり4インチの廉価版を出すのか、しかし中身は以前のiPhone 5Sより一段と高機能だ、さぞかし高性能の半導体部品がどっちゃりてんこ盛りになっていることであろう、そろそろ私の骨董品の4Sも替え時だなどと思った。デジタルエレクトロニクスの日進月歩には全く衰えるところがない。

そんなことを考えている時ふとメールが気になってチェックしてみると、マイナビニュース編集部のKさんから"アンディ・グローブ死去"の知らせが入っていた。

一瞬頭が真っ白になり、そのあと全身にざわざわという変な感覚が走った。とっさに浮かんだのは、"ある時代の終わり"という言葉だった。グローブはインテルだけでなく、シリコンバレー、半導体産業全体を代表するような人物だった。

著者所蔵のSIA提供の写真:世界初のマイクロプロセッサ4004の回路拡大図を前に写真に納まるインテルの3人、左からグローブ、ノイス、ムーア

グローブは、ロバート・ノイス、ゴードン・ムーアの2人とともにインテルの3人の創業者として紹介される場合が多いが、"マイクロプロセッサの父"と言われるノイス、"ムーアの法則"の提唱者のムーアなどのような華麗な修辞が付かない。その生い立ちも、生粋のアメリカ生まれ、どちらかと言うと裕福な家庭に生まれた他の2人とは全く違っている。

ユダヤ系ハンガリー人だったグローブはナチのユダヤ人迫害とハンガリーへのソビエト侵攻の難を逃れ、命からがら米国に渡った家族の出である。英語もろくにできないのに苦学して化学を学び、シリコンバレーの半導体の老舗フェアチャイルドに拾われたのが、彼の半導体人生の出発点だった。その後インテルを世界最強の半導体メーカーに育て上げたいきさつについては改めて述べるまでもない。

社員のだれよりも働くという仕事への集中、結論が出るまで徹底的に議論するしつこさ、今までの経験からは予測できないような事態におかれて的確な判断を断固として行い、その実行を見届ける完ぺきな行動力、また将来の成長に必要な、しかし当時では全く斬新な、方向性を見据えて戦略を立て周りの反対を押し切ってまで断行する洞察力、などなど、この業界でリーダーに必要とされる要件をはっきり示し、実行してきたような人はグローブ以外には見当たらない。

私は、AMDというインテルの競合会社の一員としてグローブ率いるインテルとの戦いに明け暮れた立場にあったのであるが、ノイス、ムーアという他のインテルのレジェンド達に対してはある種郷愁を含んだ敬意を感じる。しかし、その種の感情はグローブには感じない。私のグローブの印象は、あくまでもタフな、恐ろしいまでに冷徹な会社の総帥という感じだ。恐怖を含んだ畏敬とでも言おうか。

グローブが残した著書は少なくないが、その中でも多くのビジネスマンに読まれ、グローブの本質を表しているのが、『Only The Paranoid Survive (偏執狂だけが生き残る)』、であろう。グローブはまさに偏執狂的な集中力でもって新たな製品開発を行い、投資を行い、また競合に情け容赦のない攻撃を仕掛けた。

AMDの社内でよく聞いた話がある、"インテル本社の真ん中に高い火の見櫓があって、グローブが双眼鏡をもって世界の半導体市場を常に監視している。グローブはボヤなどで煙が立つのをいち早く見つけ、大編成の消防隊を招集する。消防隊は現場にいち早く駆けつけ、消火活動を行うが、消防隊の最終目的は消火ではなく、そのボヤがあった街を洪水になるまで水浸しにし、やっと任務を全うする…"。何かぞっとするような話だが、"インテルには絶対油断するな"という訓戒を込めて実際にAMD社内で(冗談交じりに)話されていた寓話である。

インテルを牽引したアンディ・グローブ (出典:インテルWebサイト)

私が執筆している連載シリーズではK6、K7という製品でAMDがインテルの市場に切り込み、ある程度の成功をおさめた話を書き綴っているが、その時代のインテルの背後にグローブの大いなる影を見ていた感じがする。特にK7でAMDが市場シェアを急激に伸ばした時にインテルが我々に行った報復については今でもフェアではないと思っているし、"グローブは本気でAMDを潰しにかかっている…"と恐怖を感じた瞬間が何度もある。

話をグローブの訃報に戻そう。新聞でアップルの新製品の発表記事を見た後、グローブの訃報を聞いた時感じた、あのざわざわとした感じはいったい何だったのだろうかと考えていた。それは多分、熱病につかれたように働いたAMDでの日々をあれほどまでにエキサイティングなものにしてくれたのは、他でもないグローブ率いる無敵のインテルで、その中心人物であった偉大なリーダーの訃報にショックを受けたのだと気が付いた。グローブは半導体業界を常にリードし、そこに働く者たちに常にモチベーションを与え続けた。グローブはそれほどまでに唯一無二の偉大な存在であったわけだ。

合掌。

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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