1836年に薩摩藩士の家に生まれた友厚(友厚は明治になって名乗った名前ですが、便宜上この原稿では友厚で統一します)は成人すると、藩命で長崎海軍伝習所に派遣されました。同伝習所はペリー来航後の1855年に、幕府が洋式海軍創設と士官養成のために開設した機関で、五代はここで幕臣や有力藩から派遣された伝習生と一緒に、航海術の訓練研修や測量、地理、砲術などを学びました。約1年間学んだあとも数年間長崎に滞在し、藩の外国掛として外国船の購入交渉などを担当しました。

薩摩留学生がイギリスに向け船出した海岸(鹿児島県いちき串木野市)=筆者撮影

人生を決定づけた長崎での経験

この長崎での経験が、その後の彼の人生を決定づけることになります。キーワードは「海外」と「船」です。五代は子供のころから海外に関心を持っていたようで、14歳の頃、友厚の父が島津斉彬から世界地図の模写を命じられ、父に代わって友厚が世界地図を2枚模写しました。1枚を斉彬に献上し、もう1枚を自室の壁に貼っていつも眺め、その地図をもとに地球儀を作成したそうです。そのような海外への興味と知識は、長崎での経験によってグローバルな視野へと進化を遂げたのでした。

長崎滞在中の1862年には二度にわたり上海に渡航したことが分かっています。一度目はイギリス人の商人、トーマス・グラバーと同行して現地で蒸気船を購入しました。当時は幕府使節以外の海外渡航はまだ禁止されていたので、これは密航であり密輸入です。二度目は幕府が上海に貿易船を派遣すると聞いて乗船を希望したものの認められなかったため、水夫となってもぐりこんだそうです。この時に同じ船に乗り合わせた高杉晋作と知り合い、交流を深めました。

こうした熱意と行動力には驚かされますが、このほかに五代は何隻もの蒸気船をイギリスやアメリカなどから購入し、自らそれらに乗って、鹿児島、長崎、大阪などを走り回り、商談や情報収集で成果を上げていきました。

蒸気船は今日のIT革命

五代が蒸気船と深い関わりを持ったことには大きな意味があります。それまでは例えば鹿児島から大阪まで陸路で1カ月近くかかっていたものが、2~3日でいけるようになり、移動と情報伝達のスピードがケタ違いになったのです。今で言えば新幹線や飛行機が初めて登場したようなもので、情報伝達の面ではIT革命に匹敵するほどのインパクトをもたらしたと言えるでしょう。

薩摩藩がいち早く数多くの蒸気船を所有したことが、藩の軍事力と経済力を強化し、情報収集能力を向上させる基盤を作ったことを見逃してはなりません。五代自身もその新時代のツールを使いこなし、それを通じて一段と世界への関心を高め視野を広げていったのでした。

また長崎滞在中には高杉晋作のほか、幕臣の勝海舟、榎本武揚ら、長州の桂小五郎(木戸孝允)、土佐の坂本龍馬、岩崎弥太郎など、のちに日本を動かす人たちとも知り合い、まさに明治維新のキーマンの一人となっていくのです。

中でもグラバーとの関係は特筆すべきものがあります。先ほどの上海渡航をはじめ、長崎滞在中に五代は数隻の蒸気船を外国から購入していますが、その多くでグラバーの助けを借りています。五代を通じて薩摩藩はグラバーの協力を得て、のちにイギリスからの大量の武器購入や留学生のイギリス派遣(後述)など明治維新への布石を着々と打っていくことになります。グラバーは長州や坂本龍馬なども援助したことで知られており、明治維新の"陰の主役"と言っていい存在ですが、五代との関係がその核になっていたのです。

グラバー邸(長崎市)。昨年「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録された=筆者撮影

当時グラバーが住んでいた長崎の邸宅はグラバー園として現存しており、昨年には「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録されました。住宅内部の一角には天井裏の「隠し部屋」が残っており、ここに坂本龍馬や若き日の伊藤博文がよく潜んでいたそうです。五代もグラバー邸に来ていたでしょう。そんなことを思いながら、グラバー園を見て回ると興味は尽きません。