ついに大筋合意に至ったTPP(環太平洋経済連携協定)。だが、農業関係者だけでなく、じつは多くの人々が警鐘を鳴らしてきた。その中で、国民の分断を心配する声があがっている。TPPが日本社会の英語化を加速し、その結果、日本国民が「英語階級」「日本語階級」のふたつに分断される危険性がある――。そう指摘するのが、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授で、『英語化は愚民化』(集英社新書、760円+税)を上梓した施 光恒(せ てるひさ)氏だ。なぜTPPは危険なのか、なぜ英語化が進展することで日本国民が分断されるのか、施氏にインタビューした。

施氏は、福岡県生まれ、慶應義塾大学法学部政治学科卒。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。専攻は政治理論、政治哲学。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、中野剛志氏らとの共著に『TPP 黒い条約』(集英社新書)など。

九州大学大学院比較社会文化研究院准教授で、『英語化は愚民化』を上梓した施 光恒(せ てるひさ)氏

TPPはなぜ突然"大筋合意"された?

――私がいつも思うのは、TPPの交渉過程が非常に不透明だということです。今回も、あれよあれよという間に話が進み、大筋合意に至ったという印象です。TPP問題は民主党政権時代に当時の菅直人首相が交渉参加の方針を打ち出したことで表に出てきました。しかし、自民党に政権が交代しても、方針は維持され、交渉が進められてきました。なぜ政権が変わっても、政府がTPPを推進しているのかが私にはわかりません。その辺りを教えていただいてもよろしいでしょうか。

端的に言えば、自民党もアメリカの意向を無視できないということでしょう。TPPは本をただせばアメリカの輸出拡大・雇用創出政策です。リーマン・ショックまでのアメリカは、自国民に過度の借金をさせながら海外から大量の製品を輸入し、世界の消費を牽引してきた。しかし、リーマン・ショックでアメリカの国民も、そして企業も大きなダメージを受け、政策転換が起きたのです。対外的には、アメリカのサービスや製品を買ってくれということですね。それによって雇用を産み出そうという狙いです。つまり、アメリカが外需を取りにいくためにTPPの枠組みが生まれました。日本はアメリカに安全保障の面で依存していますので、民主党だろうが自民党だろうが、アメリカの言うことはきかないといけないというのが現実的な話なのでしょう。政権が変わってもTPP推進が変わらなかったというのは、ある意味当然ではないでしょうか。

――政権が変わっても、アメリカ追従は変わらないというわけですね。

アメリカについて行けば安心だというのが、自民党の主流派の見解です。今回、大筋合意に至る過程でも、自民党議員が「アメリカのリーダーシップに期待する」と語っていたことからもわかるように、アメリカを相手に日本の国益をかけた交渉をしているという意識が欠けています。アメリカが日本に不都合なことをするはずがない、アメリカがリーダーシップを発揮してくれれば、日本は安泰だと信じている議員が多いのではないでしょうか。

――政治家はあまり深くは考えていないというわけですね。

もう一つのポイントは、ここ数年、日本の大企業のグローバル化が進み、もはや「日本」企業なのかどうか分からなくなっているということです。東証の上場企業の株式の3割は外国人が保有しています。そうした企業にしてみれば、日本にTPPに参加してほしいんですね。結局、民主党だろうが、自民党だろうが、グローバル化推進という路線は変わりません。自民党は財界とのつながりが深いので、政権交代前にはTPP反対を掲げていた自民党が推進派に舵をきったのは当然でした。

――輸出もしたいし、株式も握られているからと。

TPP推進派は、外国で商売しやすくなると考えているのではないでしょうか。確かにグローバル企業が域内で活動しすいようにTPPはできています。しかし、海外から安い製品が大量に入ってくることで、日本に根を下ろしている企業は衰退し、日本の労働者もダメージを受けるでしょう。一般の日本人にとってはデメリットが大きいのです。

TPPのデメリットとは?

――今、先生は、一般の日本人にとってはデメリットが大きいとおっしゃっていましたが、そのデメリットとは、具体的にはどういうことでしょうか。

まだ日本はデフレから完全に脱却できていません。海外からどんどん安い製品や農産品が入ってくると、デフレが悪化してしまいます。海外から安い物が入ってくるということは、国内の生産者はそれに対抗して生産コストを下げるため人件費を削っていかなければいけません。そうなると、デフレ脱却は不可能です。TPP推進派のマスコミは、米や牛肉が安くなると言って、メリットばかり強調していますが。

――私もそうした報道に大変違和感があります。米や牛肉を生産している国内の生産者にはあまり目が向けられていませんね。

TPPでは確かに食品など安いものが入ってきますけれども、それ以上に日本の生産コスト、とくに人件費を下げなければいけなくなります。農産物だけでなくて、工業製品もそうです。ですから、海外から安いものが入ってくるというのは、消費者の側面としては一見メリットがありそうですが、生産者としてはそれと競争しなければならないので困ったことになります。物価は下がりますが、賃金はもっと下がってしまう。実質的にも賃金は下がりますので、結局、デフレはより悪化することになります。多くの日本人にとって望ましくないことは明らかです。

――先生は政治学がご専門ということなので、TPPと安全保障の関係についてもう一度、お聞きします。経済的にはデメリットが大きいというのにTPPに入るということは、安全保障をアメリカに頼りたいがために政治家はTPPを推進しているということでしょうか。

アメリカは日本をTPPに加入させるために、外交カードの一つとして安全保障を使ってきたのは事実です。だからこそ、民主党政権のときに、どんな理由をつけてでも交渉参加を表明するべきではなかったのです。いったん交渉参加してしまえば、結局はアメリカに対して強く出られないだろうと私は思っていました。実際にそうなったと思います。

――民主党政権のときに、参加を表明してしまったがために、やらざるを得なくなったということですか。

そうです。推進派の方は、TPP参加の経済的メリットをきちんと説明できていません。経産省の楽観的な試算でさえ、10年間で3.2兆円のGDPアップに留まります。日本のGDPは約500兆円ですので、10年間で3.2兆円ということは、500万円の年収の家庭になぞらえれば、10年間で3.2万円の収入のアップだということになります。大した額ではないですよね。10年間で3.2兆円というわずかな額のために、国内の制度が大きく改悪される。農業ひとつをとっても、ほとんど壊滅状態に追い込まれるわけです。とても割に合いません。このように、推進派が正当な論拠を見つけられないがために、最近はTPPのメリットとは実は中国の封じ込めであるとか、韓国経済に対して有利な立場に立つためだとか、ねじれた話になってきているような気がします。

――安倍政権はJAに関しても厳しい態度で臨んできました。先生もおっしゃったように、TPPは農業を弱体化してしまうという恐れがあると思いますが、どのようにお考えでしょうか。

農業を市場原理の中でしか考えられないというのが問題です。ヨーロッパやアメリカは、補助金で農業を守っています。先進国はどの国も市場原理だけで農業を考えていません。 食糧安全保障は国民の命に関わるからです。日本のJA解体をめぐる議論というのは、食糧安全保障を忘れ、農業を市場原理のみで考えよう、という安直な思考に乗っ取られた結果です。とてもおかしな話です。「攻めの農業」と安倍さんがしきりに言っていますが、恐らく日本で生き残る農業というのは、ごく一部に過ぎないでしょう。輸出に特化した高級志向の農業は各地にほんの一握りだけ残ると思いますが、そのためには土地の集約化や農業の株式会社化が必須です。結局、今の地域社会は壊れてしまいます。土地を集約化していきますので、先祖代々の土地という発想はなくなります。効率化された農業は、人の手をあまり使わないので、離農する人々も増えるでしょう。これでは地域社会はもちません。

――かなり代償が大きいですね。米や牛肉が安くなるとか、そういう話ではないですね。

地域社会が壊れてしまうでしょう。

――みんな都市に集中するということですか。

そうですね。JAや郵便局は、地域のインフラです。金融機関が支店を置けないようなところも、協同組合である農協、JAは置いているわけです。ですが、民営化されてしまえば採算のとれない支店は、今後徐々に閉鎖されていくでしょう。生活のインフラがなくなってきますので、地方に人が住めなくなっていきます。

背景にあるのは"冷戦思考"?

――自民党は元々、農業、地方に基盤があるような政党だったはずです。地方を破壊するようなことをどうして行うのか理解に苦しむところですね。

自民党の性格が変わってきたんでしょうね。中選挙区制の時代には地方に基盤をおいていたのですが、小選挙区制になって、だんだん都市型政党になってしまったということが大きいですね。小選挙区制だと、政治家は党の公認さえ得られればよいと考えます。地方に地盤をしっかり置き、選挙区の声に耳を傾けようとする動機付けがほとんどなくなってしまったんですね。

――安倍さんは傍流かもしれないですが保守。その安倍さんがこういうことをやるというのは、ちょっとよくわからないというところがあります。

日本の保守は、戦後は伝統的に親米派です。安倍さんの頭の中では、保守は親米で、共産主義に対抗して市場重視であるべきだという冷戦時代のイメージが強く残っているのではないかと思います。ですが、保守の真髄は、日本の文化や伝統、あるいは国民生活を守るということにあります。伝統や文化を次世代に伝えていくのに必要な家族や地域共同体を守るということが根本になければなりません。安倍さんの頭の中は冷戦時代のままで、社会主義、共産主義に対する市場重視という考えから離れられないのだと思います。

――ここまでTPPが与える主に経済的な側面についてお聞きしてきましたが、次ページでは、先生が最近出された『英語化は愚民化―日本の国力が地に落ちる』のお話につなげさせていただきたいと思っています。