高校を卒業して地方の銀行に就職。ごく普通に働いて結婚、寿退社……と、順風満帆のはずが、月給10万円のビンボー生活を経て、シティバンク管理職へと大転身。こんなドラマティックな人生が注目を浴び、現在では『伸びている女性がやっている感情整理の新ルール』(KADOKAWA)などの著書を通して働く女性にエールを送るまでになった関下昌代さん。人生が激しく動き出す"アラサー"時代について、お話を聞いた。

辞めた会社を見返してやる!

――30歳前後の頃、関下さんはどんな人生を送っていましたか?

関下昌代さん

うーん。大満足とはいえないですね。26歳で離婚して心がボロボロになり、一度は熊本の実家に戻ったのですが、「このまま都落ちしたくない!!」と再び上京して、契約社員として働き出しました。その頃は生活費を稼ぐだけで必死でした。

――やはり正社員として働きたかったんですね

はい。東京でようやく某ガス会社に契約社員として就職しました。当時の月給は10万円で、家賃が5万円でしたから、生活はカツカツ。でも、いつかは正社員になれるはず、とがんばって仕事をしていました。

あるとき勇気を出して、上司に「私もいつか、正社員になれるのでしょうか」と聞いてみたら、「なれるわけないだろう! うちの娘だってなれないんだから」と。その言葉を聞いたら、腹立たしいやら、悲しいやら。でもそれがバネになったのでしょうか、「今に見ておれ~!!」とすぐに会社を辞めて、とんでもないチャレンジをしたんです。

「年収はいくらほしい?」の正しい答え

ガス会社を辞めた関下さんは、日経新聞の求人広告でたまたま見かけたシティバンク銀行に応募。外資系の銀行という、本人も予想だにしなかった華やかな職場で、正社員の地位を手に入れた。

――採用されるために、どんな作戦を?

絶対に受かるはずがないと、記念受験のような感覚でしたから、何の気負いもない代わりに、作戦も何もありませんでした。武器といえば、「金融機関に勤めた経験がある」ことだけ。ただ、当時のシティバンクは日本でのビジネス展開を拡大していくうえで、事務処理が得意な人材を求めていましたから、ちょうどニーズに合ったのが幸いして、採用してもらえたんです。

――採用試験で印象的だったことは?

面接で「年収はいくらほしいですか」と聞かれたことですね。最初の銀行員時代も、派遣社員時代も、年単位の収入なんて考えたことは一度もありませんでしたから、頭が真っ白になってしまいました。

それでもとっさに、中学時代の同級生が4年制大学を卒業して証券会社に就職し、「年収400万円」と話していたのを思い出したんです。自分にはそんなキャリアはなかったので、ちょっと遠慮して「350万円」と言ったら、本当にその金額をもらえることになりました。単純計算でガス会社のときの3倍近くですから、それはもう嬉しかったですね。