東京を代表する川、隅田川と多摩川。この2つの川をめぐって常々疑問に思っていたのが、なぜ隅田川の流れる墨田区は隅田区でないのか? なぜ多摩川に面した二子玉川は二子多摩川でないのか? ということ。この際、徹底してその理由を解明して、疑問のない東京ライフをおくりたいものである。

人気の隅田川クルーズ。写真の右岸が墨田区、左岸が台東区である

当用漢字に「隅」があれば「隅田区」だった!?

東京の三大花火大会とも言われている「隅田川花火大会」は、その名の通り、隅田川沿いの河川敷で行われる。隅田川を行く屋形船で風情を楽しんだことがある人もいるだろう。隅田川は誰もが認める東京を代表する河川である。

だけど、ちょっと待って!! 隅田川は浅草や蔵前、両国などの台東区と墨田区を隔てるように南へと流れ、東京湾へと注いでいく。隅田川の「隅田」と墨田区の「墨田」は両方とも「すみだ」と読むので、多分、もともとは同じものだろうと思われるのだが、なぜ字が違ってしまったのか。墨田区は、隅田区ではいけなかったのだろうか。

そんな素朴な疑問はけっこう大勢の人が抱くようで、墨田区の公式ウエブサイトでは、区の名前の由来が紹介されている。

それによると、「墨田区」の呼び名は、昭和22年(1947)に向島区と本所区が一つになって誕生した際につけられたもの。昔から人々に親しまれてきた隅田川堤の通称"墨堤"の「墨」と、"隅田川"の名の「田」を合わせたのだ。

ちなみに、「隅田」の漢字を推す意見がもっとも多かったというが、当時「隅」という字が当用漢字でなかったことと、隅田川が法律で正式な名称とされていなかったことから、「隅田区」の誕生に至らなかったんだとか。

もともと「すみだ」には、「隅田」「墨田」「角田」などと表記されてきた歴史があるようで、『角川日本地名大辞典・東京都』を引くと「隅田川:荒川の支流。住田川、墨田川、角田川とも書く」とある。奈良時代の『太政官符』では「住田河」、平安時代末期の『今昔物語』では「角田河」、鎌倉時代の編纂という『吾妻鑑』では「隅田河」と記されているそうだ。

古の時代、地名はまずは音(おん)で表わされ、やがてそれに文字が当てられて漢字表記されるようになったようである。そんな当り前のことに気づかせてくれる、隅田川と墨田区の関係である。

ちなみに、古典落語や、池波正太郎氏の『鬼平犯科帳』など江戸を舞台とする時代小説には「大川」という川が頻繁に登場するが、この「大川」は隅田川の吾妻橋周辺より下流域を指した呼び名で、その川筋は江戸下町の中心だったエリアである。

江戸時代には相撲興行も行われた回向院は下町・墨田のシンボル

「多麻」から始まり「多摩」「玉」「多磨」などに

さて、この隅田川と並ぶ東京を代表する河川といえば多摩川だが、こちらも川筋には「二子玉川」など「玉川」表記の地名が数多くあり、「多摩川」「玉川」どっちなのよ!? と思う人も多いだろう。

多摩川の広い河川敷は人々の憩いの場となっている

調べてみると、現在の東京都西部一帯を古くは「多麻」と表記し、それゆえに「多摩」「多磨」「玉」などとも書かれるようになり、そこを流れる川の名も「多摩川」「玉川」と様々に書かれたらしい。平安時代の『延喜式』では「多麻」であり、同じ時代の『和妙抄』には「太波川」とある。これが正しいという決まりはなかったのだろう。

「玉川」の名を取った玉川大学・玉川学園の公式サイトには、「分かりやすく、書きやすい。感じが良い」といった理由で、地元(現在の世田谷区の多摩川流域)の人たちは「玉川」と呼び慣わしていたと紹介されている。

地名辞典などによれば、歌枕である「六玉川(むたまがわ)」のひとつに数えられたことも「玉川」表記を盛んにした一因だったらしい。「六玉川」とは、山城(京都)、摂津(大阪)、紀伊(和歌山)などの「玉川」に武蔵国調布の「玉川」を加えた全国6カ所の「玉川」のことで、和歌に数多く詠まれている。

"二子玉(にこたま)"と通称される二子玉川はおしゃれな住宅地として大人気

玉川上水が江戸の町の生活を支えた

玉川上水取水口の羽村に立つ玉川兄弟の像(提供:羽村市)

また、江戸の町の水源となって人々の暮らしを支えた「玉川上水」の完成も、「玉川」をポピュラーなものとするのに一役買ったことは間違いない。

現在の東京の主な水源は隅田川の本流である荒川水系であるが、江戸時代には多摩川水系だった。江戸の町づくりの最重要課題は、江戸の生活を支える生活用水の確保であり、幕府は承応元年(1652)より多摩川からの上水開削を計画した。

この事業を請け負ったのが、後に玉川兄弟と呼ばれる庄右衛門・清右衛門の兄弟で、2人は多摩の羽村から多摩川の水を引き、武蔵の台地を横切って四谷に至る全長43mnの上水を完成させる。上水を幕府は玉川上水と名付け、兄弟に玉川姓を与えた。この玉川上水は江戸の生活用水となるとともに、武蔵野の新田開発を促した。

江戸時代にあって、多摩川・玉川はそれぞれ適宜使い分けられていたということで、それは現在とさほど変わりがないのかもしれない。東京都には多摩市があり、神奈川県川崎市には多摩区もあるが、多摩川も玉川も、多摩市も多摩区も、すべてルーツは一緒なのである。ちなみに河川としては多摩川が正式の名称である。

●参考図書
『角川日本地名大辞典・東京都』(角川書店)、『東京都の地名』(平凡社) 他