1979年にテレビ放送された『機動戦士ガンダム』から35年――生みの親である富野由悠季監督が"脱ガンダム"を掲げた最新作『ガンダム Gのレコンギスタ』。8月23日~9月5日の2週間限定で現在イベント上映されている『特別限定版』を経て、10月からはいよいよ地上波(MBSほかアニメイズム枠)での放送がスタートする。

『ガンダム Gレコンギスタ』より

今を読み、次を考える力――富野由悠季監督は多才の人だが、中でも一番の才能がこれだといえる。独特の台詞回しや演出などはそこから出てくる"飾り"のようなもので、実のところ誰も真似できないのがここである。それを改めて示した前編では、テーマや想いはもちろん、震災、原発、軌道エレベーター、果てはAKB48やももクロまでを『G-レコ』の名の下に語り、鋭く時代を見通すその目に映った"芸能"という切り口によって"脱ガンダム"に繋がったことが明かされた。そして、続く今回の後編では、地球規模の問題である人口増加と高齢化、介護と生き方、経済論とテクノロジーの進化、さらには自身の引退にまで話が及んでいく。これらは話の飛躍や脱線ではなく、『G-レコ』という作品がそれらを内包しながら巨大なテーマに繋げられる器を持っている、と言うこともできるだろう。(【前編】はこちらから)

富野由悠季
1941年11月5日生まれ 神奈川県出身
アニメーション監督、演出家、作家。1972年に『海のトリトン』で監督デビュー。『機動戦士ガンダム』(1979年)の生みの親であり、以降「ガンダムシリーズ」のほか、『伝説巨神イデオン』(1980年)、『ブレンパワード』(1998年)、『OVERMANキングゲイナー』(2002年)など、ロボットものを中心に多くの人気作品を手がけている。
撮影:大塚素久(SYASYA)

――(前編から)サンライズ谷口氏のようなスタッフが徐々に富野監督のもとに集まっていき、そこから"脱ガンダム"に辿り着いたということですね。

"ガンダムの富野"という立ち位置があったからこそ、脱ガンダムをしなければいけないということを20年ぐらい命題にしていながら、それができなかった。これは観念の問題で、「ガンダム」という単語を使った瞬間に「ガンダム」から抜け出せない自分がいたんです。年をとればとるほどそうなっていきます。70歳を過ぎて"脱ガンダム"ができたという意味では、本当にありがたく思っています。"G"は"元気のG"なんだ、ということは、1人では絶対出てこなかったという確信があるわけで、このバカ(サンライズ谷口氏を指して)がいてくれたおかげで、とっさに思いついたんですよ。

――5分で"脱ガンダム"のキャッチコピーができたわけですから(笑)。(サンライズ谷口氏)

この関係性は伊達じゃないんです。一人の人間の思考なんてたかが知れています。自分が劣等生だと思っていても、かなりロジックでものを考えてきた人間です。何より前例があると絶対的に縛られるのが僕です。だから、人との関係性の中で揺さぶりをかけられて突破口が開けると、自分自身が変わっていけることを本当に自覚しました。この企画が走りだしてから6年近くを振り返ると、最近まで自分勝手にやっていたんだなって思いますもん。

これは危険なことなんです。作家やクリエイターと言われている人の多くが個人作業だと思い込んでいて、同時に個人で仕事をやっているようにも見えています。だけど、どんな天才でも20年、30年作品を作り続けることはできません。「白鳥の湖」のような名曲を書くチャイコフスキーにも、ひどい楽曲はあります。それでも、後世の人は一応交響曲として演奏をしている。どう考えてもひどい楽曲としか思えなくて、解説を読むわけです。すると解説が本当に無理矢理曲想に合わせて理解する努力をしていて、クズを理解するのはダメだぞということをやっている。ひどいアニメや映画でも一生懸命褒めているのと構造は同じで、クラシックの世界でもそれがあったということです。

これを突破するためには、やはり恣意的に自分が変わらなければいけないと強く意識することがひとつ。もちろんそれだけでは足りなくて、強力な意思や学力を持つか、強い刺激を受けない限り変わらないでしょう。ましてやアニメの仕事は、所謂"こもり仕事"、デスクの前の仕事なのだから。僕のようにフリーでやっているつもりでいても、所詮ここの(デスク周辺を指して)フリーでしかない。

さらに言えば、フリーの意識がモニターに映しだされているかというと、全くそんなことはない。だから、10年モニターの前で仕事をしている奴のセンスなんか絶対信用しちゃいけないよ、というところまでようやくきました。自分のキャリアに固執して、絶えずバックしていくような思考回路だけは持ってはいけないということです。