ドキュメンタリーを撮る意味とは

――ホルマリン漬けとなった被爆者の臓器が大量に保管された現在の長崎大学の映像など、これまでに見たことがないような衝撃的な映像もありました。

『夏の祈り』では、長崎の被爆者の過酷な実情が優しい視点から描かれる
(C)2012 SUPERSAURUS

坂口「僕たちの日常がそうであるように、過去と現在は繋がり、交錯しながら映画もまた展開します。長崎の被爆の実情を伝えるためにも、ホーム以外の被爆者の映像や、長崎大学の映像なども撮影しました」

――福島原発の事故前に撮影を終了されていたとのことですが、この作品に福島の原発事故ととの被害を絡めようという意図はなかったのですか。

坂口「すべての撮影が終わってしばらくしてから、東日本大震災が起こりました。この作品は、すでに僕の中で完結していたので、あえて福島を関連付けようというつもりはなかったですね」

――この作品で描かれている祈りは宗教に通じますし、戦争は政治に関わりがあり、放射線による被爆は医学のお話です。題材が多岐に渡っているので、ひとつの作品としてまとめるのは困難だったのではないですか。

坂口「そういうことすら考えずに、僕自身、あくなき探究心とともに、深い歴史の闇に引きずり込まれるようにして、撮り続けていったという印象です。それでも、2年間の撮影期間なんて自慢にもなりません。取材はまだ浅い、入り口にいるという気がしています」

――これからも坂口監督は、マイノリティを描いていくのでしょうか。

坂口「マイノリティを探して撮っているわけではなく、自分が共感できて惹かれていく題材や対象が結果としてそうだという感じです。でも、自分の中のDNAが自然と選び取っているのかもしれませんね」

――少年による凶悪犯罪や性犯罪被害者など、フィクションにおいても、坂口監督の作品はシリアスな題材で、マイノリティの実情が描かれています。

坂口「僕にとって、ドキュメンタリーでどうしても撮れない部分、撮影できない事実を描くときの手法としてフィクションがあります。ノンフィクションでどうしても越えられない壁を越える表現の可能性と手段のひとつがフィクションなのです」

――坂口監督にとって「撮る」とはどういうことでしょうか。

坂口「撮影を通して、自分と他者との間に起こる学反応に関心があります。撮影する側が、撮ることに意味を見出すのと同じように、撮影される側も単なる記録でなく、撮られる意味を見出していく。その過程が深い意味を持っていると思います。撮影するとは実に不思議な行為であり、終わりのない試みであると思います」

映画『夏の祈り』はゴーシネマ配給で、2012年8月4日より長崎先行公開。2012年8月14日より渋谷 アップリンクにて公開
『夏の祈り』予告編はこちらから
(C)2012 SUPERSAURUS

撮影:国領雄二郎