【レビュー】

イルカ保護か食文化か……一部上映中止になった『ザ・コーヴ』を冷静にレビューしてみる

 

和歌山県太地町で行われているイルカ漁の実態を追ったドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』。本年度アカデミー賞やサンダンス映画祭などで数々の賞に輝き、話題を呼んだ作品が日本公開を直前にして、東京都内の劇場や大阪・シネマート心斎橋で急遽上映中止となった(※)。これは、同映画を「反日映画」と捉えた団体による過激な抗議活動を受けての判断だという。その後も上映中止に対し、55人のジャーナリスト・文化人が反対声明を発表するなど、依然として大きな波紋を呼んでいる『ザ・コーヴ』。その内容を客観的かつ冷静に分析してみた。

『ザ・コーヴ』

盗撮に憶測……作り手の誠意はどこに?

マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年)や『華氏911』(2004年)、アル・ゴア元アメリカ合衆国副大統領が主演した『不都合な真実』など、過去に日本でも話題を呼んだドキュメンタリー映画は数多くあった。もちろん、先に挙げた作品の数々にも賛否両論があり、ご都合主義的な編集の仕方や提示内容の不確定さも指摘された。しかし、いずれも日本で上映中止とまではいっていない。では、なぜ『ザ・コーヴ』はこれほどまでにエキセントリックな反応を招いているのだろう?

まずは未見の人のため、ざっとあらすじを紹介しよう。ナビゲーターは1960年代にアメリカの人気ドラマ『わんぱくフリッパー』で調教師兼俳優として活躍したリック・オバリー。彼は自らが調教したフリッパー役のイルカ、キャシーが撮影によるストレスから"自殺"したのを機に、イルカ解放運動を始めたという(ちなみに、イルカの"自殺"はオバリーの私見で、証明されてはいない)。日本でイルカ漁が行われていることを知ったオバリーは、この映画の監督ルイ・シホヨスとともに捕鯨の町・和歌山県太地町へ。しかし、イルカ漁が行われている入り江(=コーヴ)は立ち入り禁止地区。地元住民や警察に阻まれたオバリーらはさまざまな技術を駆使し、イルカ漁の盗撮に成功する――。

『ザ・コーヴ』に出演したリック・オバリー

さて、この作品を鑑賞する以前に引っかかるのが、立ち入り禁止区域に無許可で侵入し、盗撮を行っているという点だ。しかも映画を観ると、作り手たちは警察や地元住民から撮影を拒否され、比較的あっさりと盗撮に踏み切っているのである。これはマズイ……。描かれる内容以前に、作り手の誠意に疑問符が浮かんでしまう。

実はこの"作り手の誠意"こそが、本作品が問題視されている要素のように思われる。というのも、本編中で提示される"事実"にこれといった裏づけが用意されていないのだ。例えば、食用としても利用されるイルカに含まれる水銀含有量。本編中では「2000ppmという異常な数値を出したイルカ肉がある」と言われているが、それが太地町のイルカなのか、イルカの水銀含有量の平均値なのかの明言は避けている。また、「イルカ肉が鯨肉として日本で偽造販売されている」との情報も実際どこで売られているのかには触れず、鯨肉として売られているものがイルカ肉であることを裏付ける検証もなされていない。そこへもって、「漁師たちのバックにはジャパニーズ・マフィアがいると思う」だの、「太地町の人たちは僕たちを殺したいと思ってる」だの憶測でものを言われた日には、ドキュメンタリーとしての信憑性が失われてしまう。

論旨展開の甘さが"ただの批判"ととられかねない!?

しかも、論旨の展開がどうも中途半端だ。もともとこの映画は、オバリーがイルカを"自殺"させたことを悔い、イルカを守りたいと考えたことに端を発している。「イルカはかわいいし、繊細で高度な知能を持っているんだ。そんなイルカたちをショーのために捕獲したり、食用のために殺すなんてありえない。だから、守ってあげたいんだ!」というのが、本編前半の彼の主張。しかし、その主張だけでは限界がある。「かわいいから、高度な知能を持ってるから、守りたいのか? じゃ、ほかの動物を娯楽や食用のために利用することはいいのか!?」と、反論されるのは目に見えている。そこで作り手はある程度主張して行き詰ると、今度はさりげなく話題を摩り替える。「イルカは水銀を多く含んでいるから、食べると人体に危険を及ぼす」、「日本はイルカ肉を鯨肉と偽って売る不法行為を働いている」、「日本はIWC総会で捕鯨推進国を増やすため、カリブの小国を買収している」などなど……。結局、どの主張も決定的な証拠を提示しないまま、コロコロと転がっていくのだ。そうなると、観ている側は論点が見えず、「ただやみくもにイルカ漁と、それを認めている日本を批判したいだけ!?」という印象を受けてしまう。

もちろん、意見を主張するのは大いに結構。たとえ一方的な主張だろうと、論旨が甘かろうと、言論の自由はそれを認めている。あとは、観客が得た情報をもとに主張内容を客観視しながら、自分なりにその主張について考えたり、調べていけばいい。ただ単純に受け取った情報だけを鵜呑みにしないというのも、観客側の責任なのだから……。

和歌山県太地町は、明治時代より捕鯨を中心に漁業が盛んな町。国際捕鯨委員会(IWC)による規制で1988年に商業捕鯨が禁止された後も、イルカ漁業は続けて行われてきた

観客の心をじわじわと侵食し、一瞬でさらう"秀逸な"演出

しかし困ったことに(!?)、この映画はそんな観客の客観性を吹き飛ばしてしまいかねない、妙な説得力も併せ持っている。彼らが訴えたいのは「イルカを殺すことは悪だ」ということなのだろうが、そこへ持っていくために前半部分でイルカの愛らしい姿を見せまくる。「イルカはテレパシーで会話する」とか、「イルカは自殺する」という私見には懐疑的な人間でも、さすがにこれだけ無垢なイルカの映像を見せられたら、ほのかな愛情が湧いてきてしまう。そうやって観る者の中にイルカへの愛情が広がり始めたころ、この映画は盗撮した"悲しい鳴き声をあげながら殺されるイルカたち"、"イルカの血で真っ赤に染まる入り江"を見せつける。かわいいイルカたちを見た後にこの映像を見たら、たまったものではない。罪のないイルカたちをこんな無残に殺すなんて!――そう思わずにはいられなくなるのだ。

この映画が一部で"プロパガンダだ"として批判を浴びているのは、こういったドキュメンタリーにおいては卑怯だという感の否めない観客の心のさらい方と、ドキュメンタリーとしては詰めの甘い論旨展開が混在しているからなのではないか。もしこの作品が"実話をもとにしたフィクション"というカテゴリーで制作されていたら、これほど批判は受けなかったかもしれない。

というのもこの映画、仮にフィクションとして鑑賞したとしよう。その場合、先に述べた観客の心のさらい方においては、あまりにも秀逸である。かわいいイルカたちを見尽くした後に映し出されるイルカの血で染まった海など、残像が残ってしまいそうなほど、観客の目を釘付けにしてしまう。フィクションならば、"映画史上に残る名シーン"として絶賛された可能性もある。

そんなことを考えていた時、東京での上映中止を受けてリック・オバリーが発表したコメントが飛び込んできた。「これは本作のエンターテインメント性の高さに注目してくれた結果だと思います」――。彼がどういう意味で"エンターテインメント性"という言葉を使ったのか真意は測りかねる。が、この言葉を目にした時に「この映画は純粋なドキュメンタリーとは別の感覚で作られたもの」という印象を受けた。もしかしたら、この作品は現存する映画のカテゴリーに当てはめて鑑賞してはいけない"新しい映画"なのかもしれない。

(文・東凛子/フリーライター)

※今のところ、大阪・第7芸術劇場では7月3日の公開を予定しているが、そのほか上映予定だった22館の劇場については「現在、協議中」(配給元)という

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