日本銀行は2009年12月21日 / 22日 / 24日 / 25日の4日間、市民講座を中心にした催し「日本銀行へようこそ~日銀を紹介する夕べ~」を日本銀行本店で開催した。このうち、22日には、時事通信社の記者から日銀の副総裁となった藤原作弥氏が特別講演を行った。

大蔵・日銀担当記者として「向上心に燃えていた」

藤原作弥氏は、1962年に東京外国語大学を卒業し、時事通信社に入社。大蔵省や日本銀行の担当記者、解説委員などを経た後、1998年に日本銀行副総裁に就任。2003年に副総裁退職後、日立総合研究所取締役社長などを務めている。文筆家としても著名で、1982年に『聖母病院の友人たち』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。そのほか、『満州、小国民の戦地』『李香蘭』『素顔の日銀副総裁日記』などの著作がある。

藤原氏の講演タイトルは「ジャーナリストと『フクソー』(副総裁)の間で」。藤原氏はまず、大蔵省や日銀の担当記者として取材した、高度成長時代の日本経済を振り返った。戦後復興の過程では、輸出が非常に伸び、税収も増大し、給料が上がるという「全てが上昇のスパイラルにあった」(藤原氏)。

日本銀行の元副総裁、藤原作弥氏

その中で1964年に開催された東京オリンピックは、同氏にとって「忘れがたい」もので、「世界の檜(ひのき)舞台に日本がデビューするお披露目興業」でもあった。同時に、東海道新幹線や東名高速道路なども開業、日本の経済的基盤となるインフラが整えられた時代でもあった。藤原氏はこの時代に記者として大蔵省・日銀を行き来しながら「向上心に燃えていた」と話し、この時代が「戦後の『坂の上の雲』の時期にあった」と述べた。

財政優位の時代「日銀の力は弱かった」と述懐

藤原氏は、当時の日本経済を動かしていたのが、財政政策・金融政策の両輪だったとしつつも、「なんといっても財政政策のほうが勢いがよかった」と述懐。自民党が牽引する形で、増大する法人税収をさまざまな事業に付けていき、政治家は選挙民や企業にいい顔をするために、財政をばらまく立場になりがちで、「これにブレーキをかけるのが、(金融政策を担う)日銀の役割だったが、残念ながらブレーキをかけられなかった」(藤原氏)。

その背景には、経済成長を優先する政府の圧力があったが、日本銀行法にも問題があった。同法は、太平洋戦争開戦の翌年となる1942年にできたもので、「戦争遂行のため、金融はその僕(しもべ)となる」べくしてできた法律だったという。敗戦後、GHQが行った民主化の過程で、日銀にも「政策委員会」などができ、日銀法も一部手直しが行われたが、「後は運用に任せられた」(藤原氏)。その後の戦後復興の中、上記のように旗色は財政(大蔵省)のほうにあり、"法王庁""銀行の中の銀行"と呼ばれた日銀も「こと、金融政策の観点からは、力が弱かった」(同氏)。

英国やドイツ、フランスなどの中央銀行は、マクロ経済の金融行政に関する限り、独自に金融政策を行うことを打ち出すことができるのに対し、日本では、日銀法が戦時立法で政府のいいなりになるような法律になっており、政府が日銀に対する業務命令を出す権限と監督権限を持つ体制となっていた。GHQによって設けられた政策委員会も、日銀と大蔵省の折衝した結果を追認するだけで、「スリーピング・ボード(居眠り政策委員会)と揶揄されていた」(藤原氏)という。

ついにジャーナリスト出身の「フクソー(副総裁)」誕生

だが、その後のバブル崩壊とその後の大蔵省の不祥事などで状況は一変した。大蔵省から金融監督の権限をなくすと同時に、「日銀法も他の先進国並みになっていい」という声が出てきた。当時時事通信社の解説委員だった藤原氏はこうした中、金融制度調査会の委員となって、それまでの取材経験と上記のような危機意識を背景に、日本の金融政策に関する提言を行った。藤原氏は、金融政策をまるで政府の侍女のように仕える姿を変え、日銀法を、政府に左右されることなく日銀に独立性を与える内容にすることなどを提案した。

さらに藤原氏は、金融政策の決定を日銀が勝手にやるのではなく、説明責任を果たすようにして透明性を担保することができる、新法とすることも併せて提案した。こうした藤原氏の提案を反映した形で、ついに日銀法が1998年に改正。いわば、改正日銀法の"父"のような役割を果たした藤原氏だったが、サプライズが待っていた。

当時の橋本龍太郎政権の官房長官から電話があった。電話があった当初は日銀の副総裁の後任人事に関して、誰を推薦したらいいかの相談だと思ったという。だが、官房長官は「実はあなたに副総裁になってほしい」と切り出した。それに対して藤原氏は、「ウッソー」(同氏)と思い絶句。第1回目の電話では、「もちろん断った」といい、3日間逃げ回ったというが、当時大蔵省が不祥事続きだったことや、橋本首相自らの説得などもあり、受諾することを決意。ついに日銀や大蔵省の外部から、ジャーナリストの「フクソー(副総裁)」が誕生することとなった。

「社会の風を日銀に」5年間で行内改革を実施

「祖父にあこがれて記者になった」という藤原氏は、「生涯一記者としてやろう」と思っていた。こうしたこともあって、日銀副総裁になった時は、周りから「何だ、お前は堕落したのか」と言われたという。だが、「日銀の中でやったのは、ジャーナリストの延長線上の仕事だった」(藤原氏)。

「日銀の中でやったのは、ジャーナリストの延長線上の仕事だった」と述べた藤原氏

藤原氏は、副総裁就任後、「ひねたようなシャツ」(藤原氏)を着て、持っていたカバンも取材には便利だったという布製のカバンだったが、汚れたようなシミが付いており、「家内から注意された」(同氏)。2カ月たってから、「背広の上下と金具の付いたカバン」(同)に変えたというが、「それまでは非常にみすぼらしい格好だった」。こうしたこともあり、「当初から『異星人』『エイリアン』『パンダ』と呼ばれていたのは知っていた」という同氏だが、『フクソー』と呼ばれているのを知ったのは「就任して1年たってから」という。

藤原氏が「フクソー」としての5年間日銀でやったことは、大きく分けて、(1)組織面での合理化・効率化、(2)日銀の情報発信、(3)カルチャー、の3分野。まず、1の「組織面での合理化」では、コンプライアンス(法令遵守)体制の整備や、ゴルフの会員権の売却などの保有資産の見直し、職員給与などの支給基準の公表などが挙げられる。

また、情報発信においては、「分かりやすい広報活動を目指したプロジェクト」(藤原委員会)の推進、広報総括担当審議役の設置などを行った。さらに、「カルチャー」の分野では、「社会の風を日銀に」とし、女性事務服や役員食堂の廃止、従業員組合執行委員長との対談、などを行った。藤原氏はこれら全ては、前述のように「ジャーナリストの延長線上で行った仕事」と振り返ったが、このほか、「日銀に髯をはやす人(美髯家)が増えた」ことを話すと、講演会場は大きな笑いに包まれた。

「軍事大国・経済大国とは違う"生活文化立国"に」

藤原氏はこれらを話し終えた後、日銀の副総裁になった理由について、「自分自身がどうすべきか対案を出す記者にならなければならない」という藤原氏の父の遺言があったことを明かした。

また、藤原氏は終戦時、当時の満州国(現在の中国東北地方)にいて、ソ連の満州侵攻9時間前に脱出した経験があると話し、脱出がもう少し遅れていたら命はなかったと述べた。藤原氏はそうした経験から、「戦後日本の繁栄は、多くの人の犠牲の上に成り立っている」と認識し、『満州、小国民の戦地』『李香蘭』などを著すノンフィクション作家となったのも、「昭和の語り部」としての使命感があるからだと話した。

さらに藤原氏は、日本の歴史について、「戦前は軍事大国を目指して失敗し、戦後は経済一色の国家運営となったが、その咎(とが)でバブル崩壊となり、経済大国になることも失敗した」と指摘。「新しい日本として、第3の開国をしなければならない」と述べた。そのビジョンとして、「スケールの豊かさよりも、環境・生活福祉など質的な豊かさを求めることが必要」とし、「生活文化立国の国家像を描いていかなければならない」と話した。

藤原氏は、「経済記者としての教訓」と「満州体験」が、自らの教訓になっていると説明。今回の講演はその教訓をもとに、ジャーナリストとして到達した1つの哲学の一端を紹介したものだと話した。

最後に「日銀で学んだものは多かった」とし、「国民経済のため、日銀がいい政策ができるように願っている」と「フクソー」として過ごした古巣にエールを送り、講演を締めくくった。