経営者と技術者の間で、特殊な専門性を発揮しなければならないITコンサルタント。この分野で大成するにはどのような知識/考え方を身に付けるべきなのか。

三井金属グループの情報システム部門で長年にわたり先進的な取り組みを続け、現在はITソリューションを提供するグループ企業「ユアソフト」の代表取締役を務める三井一夫氏に、自身の経験に基づくアドバイスをお願いした。

三井 一夫(Kazuo Mitsui)
ユアソフト 代表取締役社長 / SAPジャパン・ユーザー・グループ 常任理事


1949年生まれ。1972年に三井金属鉱業に入社し、神岡鉱業所(現、神岡鉱山株式会社)に配属される。翌年、製錬所トータル制御システムプロジェクトに参加。以来、情報システム部門一筋の道を歩む。

同社では、本社計数室で全社情報システム部門の在り方を考え、情報システム部門の分社化を計画するなど、全体最適という視点でのシステム/業務最適化に早くから取り組む。

1989年、ユアソフト設立と同時に取締役開発部長に就任。1997年に常務取締役に就任し、三井金属グループへのR/3導入プロジェクトを推進する。2000年には三井金属経営企画部IT企画室長を兼務し、三井金属グループのIT化推進とユアソフトにおけるSAPビジネスの2つの旗振り役に。

2003年、ユアソフト代表取締役に就任し、現在に至る。

システムは人間を変える! 実開発で実感した現場視点の大切さ


――親会社である三井金属に入社されたのが1972年ということですが、ちょうどコンピューターの利用が始まったころですね。

三井氏: 入社と同時に、"スーパーカミオカンデ"で有名な岐阜の神岡に配属になりました。当時、神岡には三井金属の最大の拠点である神岡鉱業所があり、約3,000名が働いていて、情報システム部門だけでも30名おりました。

最初は、電気設備を担当する工作課電気担当として配属されたのですが、入社1年目に亜鉛の製錬工場をコンピューターでトータルにコントロールするプロジェクトの立ち上げメンバーを社内公募していたので、手を挙げて異動しました。それ以来、情報システム部門一筋です。

当時は製錬所ごとに情報システムの部署があって、それぞれが独立して活動していました。応募したプロジェクトは頓挫してしまいましたが、私は神岡鉱業所の人事、給与、会計など業務システム全般を担当しました。

本社と並ぶ大拠点だった神岡鉱業所では、本社に対するライバル意識みたいなものがあって、予算の大きい本社がIBMのマシンを入れていたのに対して、富士通のマシンを導入して、現場に密着したシステム作りを目指していました。私自身もCOBOLの研修会に参加してプログラミングを勉強しました。

――現場の近くでシステムを開発してきたことは、ご自身にとってよい経験になったのではないでしょうか。

三井氏: 当時の上司からは徹底して現場の視点を要求されました。三井金属で初めて作られたオンラインシステムは、1974年に神岡鉱業所で開発された資材購買システムですが、その開発に当たって上司から「システムの導入は人間を変えるものだ」と言われましたね。

倉庫の担当者から見れば、お客様は現場の担当者たちです。常に適正在庫を維持するために、ベテランの倉庫担当者がシステムに合わせて業務改善を行うことになるのです。こうしたベテラン担当者と一緒になって考え、システムを構築して評価されたことは、大きな自信につながりました。この神岡鉱業所での経験が私の原点なのです。

神岡鉱業所に8年間いて、係長になるタイミングで埼玉県上尾市にある圧延加工事業部に異動になりましたが、ここでも現場の視点で考えるというアプローチを活かすことができました。

当時、圧延加工事業部では生産管理に大々的に取り組んでいたのですが、プロジェクトはうまくいっていませんでした。そのてこ入れを期待されて赴任した私は、トータルで3カ月間にわたって、関係部署の仕事をさせてもらいました。工場長から実務担当者まで幅広く関係する人たちと接し、生産管理の対象となる業務を勉強することで、見直しの原動力を得ることができたのです。

システム側としては、現場を知らなかったこと、現場とのコミュニケーションが少なかったことが、反省材料として浮かび上がってきました。現場からのアプローチの大切さを改めて実感しましたね。

2年先を読み、IT部門を分社化


――ユアソフトを立ち上げられた背景にはどんなことがあったのでしょうか。

三井氏: 私は1983年から本社に移って、全社システムのオンライン化に取り組んできましたが、1980年代半ばごろから円高が進んで不況が深刻化し、三井金属のビジネス全体の見直しが迫られるようになりました。

そうした中で、各製錬所のシステム(ハードウェアとOSのみ)を1カ所に統合し、相乗りで利用することによるコストダウン等の取組みも行いました。1986年には究極の生き残り策として神岡鉱業所を分離独立させ、神岡鉱山株式会社が設立されました。当然システム部門は、最大限ミニマイズしてアウトソーシングするか、外部の仕事を受注してコストミニマイズにより人材や技術とノウハウの継承を図るかの選択を迫られました。

私はこの問題は2年後には本社にも起きてくると予想し、全社レベルの問題として対処すべきだと考えました。そこで1989年に、神岡鉱業所のシステム部門のメンバーと本社の一部のメンバーによって、新会社を設立しました。それが当社です。2年後には、本社のシステム部門を吸収して組織を拡大しました。2段階でIT部門を分社化したのです。

当時、システムは手作りの時代で、人がいれば仕事がもらえるといった風潮がありました。そこで神岡に本社を置いて、地域と密着しながら事業を広げようと考えたのですが、営業力不足や技術力不足から大赤字に陥りました。追い詰められた当社は、1994年に組織をコンパクトに再編して、再スタートを切ったのです。

――その後、SAPビジネスを展開するようになったのですね。

三井氏: そうですね。2000年問題もあって、1996年ごろから、三井金属としてグループ経営の視点で統一したシステムに切り替えたいという話が出ていました。常務だった私は、三井金属側の先輩と2人で推進役を仰せつかったのですが、どう考えても手作りで対応するのは無理だと考えていました。「ではどうやって実現するのか」と悩んでいた時に、SAPと巡り合ったのです。

当時、日本市場でもERPが出始めていたころで、その中でもSAPはERPの専業ベンダーとしてNo.1のシェアを占め、売上の20% を開発投資に当てていると聞きました。「もうそれを選択するしかないのでは」と考え、日本の汎用機ベンダーでSAPのプロジェクトにもっとも実績のある日立さんに話を聞きに行きました。2時間ほど話を聞いて、基本的にやれるという感触を持ちました。

すでに世界中で豊富な実績を持っていましたから、機能をいちいち検証することに意味はないと思いましたね。ここだけは譲れないという部分はあるにせよ、画面などにこだわらなければ、できるはずだと信じて選択しました。