日本のメカデザイナーの草分け的存在、大河原邦男氏。37年にわたって手がけられた作品は、『科学忍者隊ガッチャマン』、『ヤッターマン』をはじめとするタイムボカンシリーズ、『機動戦士ガンダム』とそのシリーズ、『装甲騎兵ボトムズ』、『勇者王ガオガイガー』を含む勇者シリーズほか多数。なぜ、これほど多くの作品を生み出し続けられたのか?! 氏の歩みを追ってみる。

メカデザイナー・大河原邦男氏

――漫画やアニメには、あまり興味をおもちではなかったとうかがいましたが……。

「我々の業界っていうのは、漫画好きとかアニメ好きとかが多いんですけれども、私はそうではないですね」

――それでは、いわゆる美大に進まれたのは、どのような動機からだったんでしょう?

「ウチの親が大学は必ず出ろっていう考え方だったんで。私は4人兄弟の3番目で、姉と兄は文学系に進んだんですけれども、そういうところはおもしろくなくて、一番おもしろそうなのは美術大学かなっていうことですね。図画工作の中でも工作が好きだったんで。絵は好きではないけど描けはしましたし、受験のために個人レッスンも受けてましたから」

――美大の中でも、東京造形大学のご出身……。

「多摩美(多摩美術大学)が家から通いやすかったので目指してたんですけれども、ある日父親が、八王子のほうに美大ができるぞと。当然、1期生になるので、その魅力からですね。今のサンライズの社長(の内田健二氏)は、私の6、7期下の後輩なんですよ」

――学科も、テキスタイルデザイン科という、アニメとはおよそ関係のなさそうな学科ですね。

「グラフィックデザイン科に入ったんですけれども、当時は横尾忠則さんが全盛の時代で、とても張り合えないので、あまり人のやってなさそうなテキスタイルデザイン科に……。1期生なので、2年のときにコースを替えることができたんですよ」

――テキスタイルデザイン科では、もっぱら布地の……。

「デザイン、機織、染め物……、全部。実技も。あとは、洋服作ったり、テキスタイル関係全部ですね」

――そこを卒業すれば、そういった服飾関係の会社に就職できたわけですか?

「1期生ですから先輩はいないわけですね。それで、紳士服に興味があったので、アパレル関係の大手がオンワード樫山ということで、先生の紹介で、大学4年の夏から通い始めましたね」

――その後、同様に服飾関係の株式会社キムラタンに移られて、子ども向けの「おとぎの国」というブランドを手がけられると。

「仕事を変わるのに、同業が一番入りやすいっていう……。(当時)渋谷にあって、ベビー服、子ども服で、オンワード樫山ほど大きくないんで、おもしろいかなと。ウチの女房が入ったころに、新しいブランドが増えていったんですけどね」

――そこで、奥様と出会われたわけですか?

「結婚しようといって私は辞めて、職探しをして、タツノコプロに入ったんです」

――タツノコプロに入られたキッカケは、新聞で求人広告を見られたことだそうですね。

「ちょうど若干名の求人があったんで。同期は、制作に入った井上(後に『タイムボカンシリーズ ヤットデタマン』のプロデューサーなどを務めた井上明氏)と横尾(後に『とびだせ!マシーン飛竜』のプロデューサーなどを務めた横尾潔氏)で、私が美術に入ったんですね」

――入社試験というようなものは、ありましたか?

「試験というより、僕の場合は美大だったんで、作品持って来いってことで染め物持って行って、面接してもらったのが(いずれも、当時社長の吉田竜夫さんの弟で、タツノコプロの重役であった)吉田健二さんと九里一平さんだったんですね。で、九里さんが、(車の)免許持ってるやつ珍しいから、お前制作に行けって言ったら、健二さんがせっかく美大出てるんだから美術に入れ、ってことで」

――それで、タツノコプロの美術部に配属されて、まずは背景を描くところから始められた……。

「基礎訓練ですね。普通、3カ月ぐらいは、いろいろなテクニックを勉強するんですけど、僕の場合は、あっという間に『科学忍者隊ガッチャマン』の仕事を請けるようになったんで。一番先にやったのが、タイトルロゴでしたね」

――そういったことをなさっている中で、美術の傍らメカデザインをおやりになってらした上司の中村光毅さんから、メカもやってみろ、ということで、鉄獣メカのデザインなどのお仕事を振られるようになったと。

「そうです」