90年代に始まった景気低迷から20年弱経ったいまもなお、停滞したその空気から抜け出すことができない日本経済。これを打破するための解決策はどこに見出せるのだろうか。現在日本が抱えるこの深刻な問題について、『「超」整理法』や『「超」勉強法』などのビジネス書の著者としても知られる経済学者の早稲田大学大学院教授 野口悠紀雄氏が、日本が向き合うべき課題について語った。10月29日に開かれたガートナー主催の「Gartner Symposium/IT xpo 2008」で行われた野口氏の基調講演「日本の停滞を打破する究極手段とは」から、景気回復の打開策を考える。

野口悠紀雄氏

野口氏がまずはじめに紹介したのは、2004年における主要先進国の1人あたり国民総生産(GDP)と製造業就業者の比率を表した分布図だ。この図において、日本はGDPの高さではほぼ中央に位置しており、図中の国の中では平均的な水準にあることがひと目でわかる。しかし、90年代のはじめには日本は主要先進国の中でもGDPが断トツの1位を維持した国。当時からすればその後の経済の停滞ぶりがあからさまにわかる悲しい凋落の結果を示すものでもある。

一方、GDPで日本よりも上位にある国の中でも特に注目されるのがアイルランドだ。「アイルランドは、イギリスの産業革命に乗り遅れた人たちが残り、農業国にとどまった、ヨーロッパでもっとも貧しかった国。1990年初頭のGDPは日本の半分ぐらいしかなかった」と野口氏。しかし、アイルランドは1990年代後半に急成長し、現在は日本の1.5倍ほどのGDPを誇る、ヨーロッパでももっとも豊かな国のひとつとなった。その要因として、野口氏が目を向けるのが製造業就業者の比率だ。確かに、野口氏が紹介した1人あたりのGDPと製造業就業者の比率を表した分布図では、製造業従事者の割合が低いほど、GDPが高くなる傾向にあることがわかる。アイルランドは日本よりもその比率が低く、アメリカに至っては日本の半分程度に過ぎない。

こうしたアイルランドの90年代後半以降の成長は、"脱工業化"にあると野口氏は説明する。そして、日本が90年代に起きたこの波に乗り切れなかったことが、長期に渡って経済の低迷から抜け出せない要因となっていると指摘する。「日本は脱工業化せずに、輸出で豊国を図った。その経済構造が崩壊し、深刻な問題を引き起こしている。現在の株価の暴落は、今年8月に起きたサブプライムローンの破綻に端を発して、その影響が日本にも波及していると思われているが、それは表面的な問題で、日本は問題の中心になっている。日本経済の中身を全体的に変えなければ解決はできない」(野口氏)

90年代に世界経済に大きな変化を引き起こしたものとして第一に挙げられるのは、冷戦の終結だ。社会主義経済圏が崩壊したことにより、資本主義国は安い賃金で生産性の高い労働力を大量に迎え入れることになった。野口氏によると、日本をはじめ、ドイツ、フランス、イタリアなどヨーロッパ大陸の中心にあった産業大国がこの変化に合わせて戦略転換を図れなかった一方で、その周辺の小さな国が脱工業化に成功した。

そして90年代の第二の変化はIT革命だ。ITの登場は、単に産業構造を変えただけでなく、一般の人々の生活をも変えてしまった。1980年までのインフラの中心だった電力に並んで、ITもあらゆる経済活動に影響する社会基盤としていまや人々の生活に欠かせないものにまで浸透した。その結果、ITインフラを通じてアメリカの企業がインドにコールセンターを設けるといった海外アウトソーシングも一気に広がった。野口氏はアイルランドの成功の裏には、彼らがスタンダードに英語が話せることをポイントのひとつとして挙げる。「ITの普及と英語は密接な関わりがある。ヨーロッパの大国は英語が苦手。小国は英語ができなければ商売ができない。英語が話せたことでITに対応できた」と野口氏。さらに「アイルランドは外国からの投資に対してオープンだった。アイルランドの場合、もともとあった企業が成長したのではなく、新しい企業がアメリカからの直接投資を受けて活性化された」と、外国からの直接投資に対して拒否反応を示した日本との違いを指摘した。

また、野口氏は日米の主要企業の価値を時価総額で比較した表を紹介。企業規模が大きいほど時価総額は大きくなるので、時価総額を従業員数で割った1人あたりの時価総額を算出し、それを高い順にA、B、Cのグループに分け、一覧にしている。その結果、ひとりあたりの時価総額がもっとも高かったのがGoogle。1人あたりの時価総額は1,283万ドルに値する。そのほか、もっとも時価総額の高いグループAには、Yahoo!、Microsoft、Apple、Intel、AmazonなどいわゆるIT系企業が並んだ。これに対して、ゼネラルモーターズ(GM)、フォードといったアメリカを代表する自動車メーカー2社はグループCとなった。日本の企業でもっとも1人あたりの時価総額が高かったのはトヨタ自動車で81万ドル。そのほか、キヤノン、ソニーなどほとんどの日本の企業がグループBとなり、グループAに入った企業は1社もなかった。

野口氏は、グループAに属する企業の特徴として、創立10年程度の比較的若い企業、もしくは10年前は注目されていなかった企業だと語る。また、事業規模も比較的小さく、少し前までは小企業だった会社ばかりだ。業種では、ITサービスを提供する企業が占め、伝統的な製造業と呼ばれる企業は1社も含まれておらず、「脱工業化の傾向と同じ方向性を示している」と野口氏。IntelやAppleなど、製造業と呼ばれる業態の企業もグループAに一部属するものの、これらの企業も部品の製造から組み立てまでをすべてまかなう伝統的な製造業とは性格が異なる。

この違いについて野口氏は「端的に言うと、"水平分業"の製造業。パソコンを最初から最後までつくっている企業はない。これに相反するのは部品から組み立てまで行う"垂直"製造業で、製造業の中でも構造の変化が起きている」と指摘。「この比較を見ると、アメリカの産業構造の変化に対して、日本の産業構造が変化していないことが明らか。日本人ひとりひとりの能力を見た場合、この比較で示されたように、1人あたりの時価総額がアメリカのトップ企業の1/10以下というのはおかしい。日本人の能力はもっと高いはずなのに、これは優れた能力が活かされていないという証拠だ。新しい経済活動というのは、経済構造が安定しているときには出てこない。混乱しているからこそ起こるもの。今こそ新しい経済構造が出てくるチャンスだと思う」と語った。

戦後の高度経済成長を経て、80年代のバブル経済の崩壊で、長らく苦境から這い出すことのできない日本経済。これを打破するには、世界的な社会変化に目を向け、早く時代錯誤な戦略から脱却し、一刻も早く21世紀型の産業構造への転換を実現することがカギとなるようだ。