この夏公開中のアニメ映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』のトークショーが21日、東京・新宿バルト9にて行われた。ステージには押井守監督が登壇し、「『スカイ・クロラ』の映像表現とテーマについて」という切り口から制作時の苦労話や、作品に込めたメッセージを語った。

トークの聞き手は共に映画を作り上げた石井朋彦プロデューサーということで、この日の押井監督はリラックスした雰囲気。映画を見終わったばかりの客席からは率直な質問も飛び出すなど、第65回ヴェネチア国際映画祭・コンペティション部門への正式出品を直前に控えて、充実したトークショーとなった。作品をこれから見る人、あるいはもう一度再見する人のための絶好のガイドとして、以下にその内容を紹介しておきたい。

平日の開催にも関わらず会場はほぼ満席に。客席はとくに20代の若い男女で多く占められた

「『スカイ・クロラ』では雲の上の世界は全部3Dで作ってて、雲は全部パーティクルという動く3Dのモデルなんですよね。青空は天球を作って貼り込んで、それに太陽の光源を乗せている。そういう作りになってます。ただしコックピットのキャラクターは作画してあるわけですね。戦闘機は絶えず移動してますんで、キャノピーのフレームの影が身体の上を流れる。人工の光源を置いて、服を着て目鼻もついたダミーの3Dの人形に流れる影を落とし込んで、そこに流れる影を作画に全部写し取って描いている。さらに反射を合成して、キャノピーのアクリル樹脂の細かな傷を全部加えて、細かいリフレクションを足していく。それが要するに飛行機が動く度に全部変化するわけで、3次元を主として2次元を追従させている。

これが逆に地上では3次元をちょこちょこ使ってます。ドアとか引き出しとかは全部3次元で作って、それに素材を貼り込んでいるわけですね。ドライブインの酒ビンとか全部1本1本3次元で作って、それにラベルを貼り込んで並べてる。そうしないとああいう細かい情報量を持った独特の雰囲気って出ないんですよ。筆の幅では描けないから。この作品ではそういうふうに主従を入れ替えてます。僕は2Dと3Dは両方必要だってことをずっと主張してて、ハリウッドみたいに3次元で全部作る、もしくはどこかの巨匠みたいに『全部鉛筆で描くんだ』とかね(笑)、そうやって素材を一元化するのは作り手としては同じ考え方をすればいいから非常に作りやすいんです。でも僕の映画ではいろんな素材を使いこなして最終的な画面にする。レベルの異なる素材をいかにひとつの鍋に放り込んで料理するか。料理の深い味はそうやって出るもんだという。今回は2次元の素材と3次元の素材を使いこなすことで映画をより重層的にしたかった。

「どんなにつらくても僕らは日常に生きるしかない。人間は地上でしか生き死にできないという作品です」と押井監督

これはこの作品にとって最大のテーマなんですけど、彼らは空を飛んで死と隣り合わせの空中戦をしているときだけ生の実感を感じ取れる。ただしそこは非日常の世界であって、非日常の世界に人間は住めないわけですよね。その一方で生活する時間というのは極めて退屈である。問題なのはどんな人間でも必ず日常に帰ってくる。つまり彼らが戦闘機に乗って一生飛び続けていたいと思ったとしても、寿命が尽きる前に燃料が尽きる。燃料切れで帰るか、それとも撃墜されて地上に激突するか、いずれにせよ帰ってくる。それがこの作品のテーマですよね。どんなにつらくても僕らは日常に生きるしかない、人間は地上でしか生き死にできないんだという世界観ですよ。ただ日常の世界のなかで背負うべきものと出会ったときに初めて違った種類の、非日常の世界に匹敵し得るような時間を獲得できるんだということを表現したかったんです。

気づいた方もいるかもしれないですけども、雲の上を飛んでるときの時間の流れと、地上で彼らがビールを飲んだりタバコを吸ったりしてる時間と、時間の経過が違うんですね。映画の時間軸というのはいくらでも操作できるので、非常にまったりとした時間を地上で表現して、一方で圧縮された濃厚な時間は雲の上で表現する。そのために情報量のあり方を変えたかったんですよ。地上ではドライブインの酒ビンだったりマッチのラベルだったり、ありとあらゆるところに瑣末な情報が満ちている。だけど空の上の情報は雲の変化、光線の変化しかない。よりシンプルな情報で満たされた世界がいかにすばらしいか。それを瑣末なディテールで満ちた日常の地上と対比して鮮やかに描くことで作品のテーマと一致するだろうと。世界観とテーマの一致というのは、例えてみればそういうことなんですよ。

映画の世界観とは構造的にドラマの本質と重ね合わせて描かれるべきであって、昔やった『イノセンス』という作品は垂直軸の世界なんだと。つまり井戸の底のような深いところで主人公のバトーは人形と出会って、高い塔から俯瞰する世界でヒロインの素子に再会する。しかもその素子というのは衛星経由で垂直軸に下りてくる。だからあの世界の建築は、縦に縦にという垂直線の建築様式であるゴシックである必要があった。深い井戸の底と天上の世界。ダンテの『神曲』から思いついたんですけどね。人間はその垂直軸の真ん中で非常に宙ぶらりんに生きている、そういう映画にしたかったんですよ。

今回の『スカイ・クロラ』は垂直軸というよりは、雲で分断された地上と空のふたつの世界であって、地上には絶えず空から降りてくる者を待つ存在がいる。それは飛行機が下りてくる度に吠える犬だったりするわけですね。そういう構造をいかに作品のなかに仕込んでいくか。例えば地上では彼らがバイクや車に乗っても水平方向にしか移動しない。その水平方向の移動も水平線がまったく動かない、つまり移動感のない表現をするために、絶えず正面か後ろから撮影してる。あれもCGとかデジタルで表現が可能になった新しい表現ですけど、地上では縦に縦に進むほど移動感が消滅していく。そういうことがこの作品の一番大きな仕掛けだと言えると思います」

「『スカイ・クロラ』には雲で分断されたふたつの世界があって、地上には空から降りてくる者を待つ存在がいる」(押井談)

客席からの質問

――監督はキルドレになりたいと思いますか?

「僕はティーチャーみたいな奴になりたいというか、絶えず堂々たる大人を目指して生きようというかね。ただ誰の中にもキルドレな部分、子どもであり続けたい部分って必ずあると思うんですね。それはべつに構わないと思う。そのこと自体は不自然じゃないから。ただそういう自覚があるかどうかが一番重要なんだと思う。自分のなかにある子どもとか女性とかね、人間というのは自分が思っているような一元的な存在じゃない。そのなかで自分が選び取った人格は何なのか。それが自分が自分である根拠であり、そのことを自分でどう評価するかなんですよ。この映画のなかでも繰り返し語られてるんですけど、僕は大人の男たることを目指してます。それは肉体的にも精神的にも。まあ、ほぼそれを手に入れたかなっていう(笑)」

――「ティーチャーのようになりたい」ということでしたが、函南のように自分を殺しにくる人が来たらどうしますか?

「ああ、殺すよ。僕は自分が痛い思いをするぐらいだったら相手に痛い思いをさせたいし、自分が死ぬぐらいなら殺したほうがマシであるっていう、そういうふうに考えるようになった。大人の男ってべつに暴力的な人間のことを指すわけじゃないの。そういう判断を瞬時になせる人間、そういう覚悟のなかで生きるというかね。かつてそれは侍とか武道家とか言われた人間たちがそうだったけど、べつに精神主義的な話ではないんだよ。女の人だって同じことで、自分の子どもが殺されそうになったときにどうするか。それはとくにいまみたいな時代だったら仮定の話じゃないよね。そのことを覚悟して生きることがつまり大人の男であり、もしかしたら大人の女なんだよ。それを保留して生きることはいまの世の中ならいつだって可能なんだよね。でも自分の人生はそういう覚悟なしには生きられない。他人の人生はどうでもいいんだよ。社会的通念も関係ないと考えてますね」

<ご注意>
※下記の発言には原作小説と映画の後半の内容を含んでいます。未見の方はご注意ください

――原作と比べて函南の性格が温厚になっている印象ですが、それにはどんな意味があるんでしょうか?

「基本的にはこの映画の主人公はやっぱり草薙水素だと思ってるんですよ。原作を読んだ瞬間からそういうふうに思ったんです。原作は函南優一の一人称で書かれてますよね。だからこそ最後に語り手である優一が草薙水素を射殺して終わるわけだけど、つまり小説の必然で、優一の一人称で語られている以上、語り手は死なないわけだよね。で、映画はそれがない分だけ結末が読みにくい。僕はそれが映画の面白いところだと思ってるけれど、僕の理屈では最後に地上に立っている人間が主人公なんです。どんなに魅力的な人物であろうと途中で退場した人間は主人公じゃないんですね。

よくだから『スカイ・クロラ』を特攻隊の映画と比較する人がいるんですけど、それはそれで間違ってない部分もあるんですよ。ただ僕に言わせれば、明確に特攻隊映画と違う最大の部分は、やっぱり生きることをテーマにしたということです。いかにして生きるか。生き残るかと言ってもいいんだけど、最後に滑走路に立っている人間は誰なんだっていう。でも草薙水素が去り、草薙瑞希が去り、犬も去って、最後に滑走路と空と雲だけが残った。じつは世界だけが最後に残るんで、風とともに人間が去ってもびくともしない。微塵も変わらない世界に僕らは生きている。でも『だからこそ、そこに立つ理由があるんだ』って考えて作りましたね。

(函南優一役の)加瀬亮にも同じことを言われてちょっと参ったこともあるんだけど、優一君はそういう意味では、どうとらえていいかわからない不思議な男なんですよ。自分についてなにも知らない。そういう人物は『アヴァロン』のアッシュとか前にも出したことあるんですけど、でもそれは僕らの日常の映し絵なんだよね。『僕らが日常を送る上で自分に関する知識ってどれだけ必要なんだろう?』っていう。それはおそらく優一君とたいして変わらない。函南優一君というのは、つまり僕らなんだよね」

「優一君はどうとらえていいかわからない不思議な男なんですよ」(押井談)

公開から3週目のトークショーということで、より作品の核心に踏み込んで語った押井監督。数々の取材に立ち会った石井プロデューサーも「このお話はいろんなインタビューでも押井さんに問われることはなかったので、とても貴重なお話だったと思います」と感想を漏らすなど、実りの多い内容となった。こうした作品内での試みが、8月27日から行われているヴェネチア国際映画祭の大舞台でいかに評価されるか、押井監督の証言を噛み締めつつ期待して待ちたい。

『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』は新宿ミラノ、渋谷東急他全国劇場にて公開中。

(c)2008 森博嗣/『スカイ・クロラ』製作委員会