――そこで、決意して、持ち込みに行かれるわけですね。

「でも、やっぱりというかなんというか、そうは問屋がおろさないわけです(笑)。一番最初に持ち込みしたマンガこそね、結構評判良かったんですよ。『少年サンデー』だったんですけど、プロはだしであるとか、これは即戦力になり得るみたいな。そういう評価をもらったんですな。オレいけるじゃん、と舞い上がりましたよ(笑)。でも、そこからがなぜかいけない」

――それは何がいけなかったんでしょう?

「1回1回持ち込みして、見てもらう人が違ってたんですよ(笑)。今なら、褒めてくれた編集さんに名刺の1枚ももらって、前回受けたアドバイスを基に今回はこういう作品を描いてきたがどうか、ダメならどこを直せば掲載できるレベルになるか、みたいなね。こういう営業をかけるのが持ち込みじゃないですか。そういう知恵が全然足りなかった(笑)。Aという人に見せますわね。そうすると、この部分とこの部分がいけない、みたいな。じゃ、直してこようと。そこを直して次に持ち込んだ時にはBという編集さんに見せる。すると当然ですけど、意見が微妙に違うわけですよ。ここは僕、あんまり好きじゃないなとか言われて。わざわざ直したところがダメ出しされたりするわけですね。それで、じゃ、いけないのかと思い持って帰って、また描き直して、今度はCという人に見せるわけですよ。そうすると、またまた意見が違うわけです。今思うとホント愚かでしたね(笑)」

――「少年サンデー」に載りたかったんですか?

「あさりよしとお先生と島本和彦先生が、たまたま『少年サンデー』でデビューされてたもんで。じゃあ、なんとなくオレも『サンデー』かな、みたいなふうに思ってたんですね」

――当時の「少年サンデー」といえば……。

「『うる星やつら』が流行っておりまして。また、『タッチ』とかラブコメの路線で結構イケイケだった時代だったんですね。で、そのせいか知らないけど、新人の持ち込みとか別冊で『月刊少年サンデー』というのが出てまして、それで毎月毎月、いろんな新人さんが載ってまして、この新人さんに比べたらオレのマンガはどうだろうと、常に考えるわけですね。それでこれだったらオレにもできるんじゃないか、みたいなね。そこで毎月毎月出る『月刊少年サンデー』を見ながら一喜一憂するわけですよ」

――持ち込む作品にも、ラブコメ路線は反映されたんですか?

「いえ、とにかくもうギャグマンガを描きたかったんですよ。ストーリーがあって、そこになんとなくほんわかな笑いがのってるお話じゃなくて、そのストーリー自体をぶち壊すようなギャグ、その枠組み自体からはみ出ちゃうようなメチャクチャがやりたかったんですね。そういう理解って、当時の『少年サンデー』にはすごくなかったです」

――すると、編集の方のご意見としては……。

「どんなにメチャクチャなギャグをやろうとしても言われることは、"やはりもう少し女の子をかわいく"とか、"もうちょっと恋愛の要素を絡めたらどうか"とか。ひどいときには、"君の描く女の子はかわいくないから、高橋留美子先生のマンガのマネをしたらどうか"、とかね(笑)。そういうこと言われてしまうわけですよ。それがツラくてツラくて」

――そのころですか、アシスタントの話がきたのは?

「さてこれ、どうしたもんだかなあと思っているうちに『少年サンデー』の担当さんに、"アシスタントやってみないか"と言われたわけですね。で、紹介してくださった先が、なんと、弘兼憲史先生のお仕事場。弘兼先生って、今も昔もかっちりした大人の方じゃないですか。なんか全然違う世界なんで、あたふたしてしまいまして、今思うと弘兼先生にはいろいろ、かなり失礼なことをしてしまったのではないかと慙愧にたえません、わたし」