『仮面ライダー』シリーズをはじめ、『人造人間キカイダー』『がんばれ!!ロボコン』『秘密戦隊ゴレンジャー』など、数多くの特撮番組の原作者でもある漫画家・石ノ森章太郎。これらの作品をプロデューサーとして世に送り出した元東映の平山亨氏は、生前の石ノ森と最も深いつき合いのあった1人である。氏に石ノ森章太郎の人となりと、その作品について語っていただいた。

平山亨氏

――平山さんが石ノ森章太郎先生と一緒になさった初めての仕事は、71年に放送を開始した『仮面ライダー』ですね。そもそも、この企画が立ち上がったキッカケは、毎日放送から番組制作の依頼が東映に持ち込まれたことだったんですね。

「渡辺さんがある日突然本社へ帰ってきてね、『仮面アクションものをやろう!』って。『なんですか、そりゃあ!?』って言ったら、『毎日さんで今、演説をぶってきたんだ』と」

――渡辺さんといいますと、当時、東映テレビ部の次長で、平山さんの上司であられた渡辺亮徳さんのことですね。制作を依頼されたのは、土曜の夜7時半に放送する番組……。

「つまり、裏に『巨泉のお笑い頭の体操』という40%を超える視聴率をとってるお化け番組があってね、TBS以外の局はいずれも3年越しに苦戦してると」

――それを受けて、渡辺さんは思い切った提案をなさった……。

「それで渡辺さんが、『こういうときは、周りを見回して類似したものがないのをやるしかない』と。そのころ、スポ根ばっかりでしょ。最初は『困ったな』と思いながらも、『そうだ、伊上さんに相談してみよう』と」

――伊上さんといいますと、『仮面の忍者赤影』や『ジャイアントロボ』をはじめ、『人造人間キカイダー』や時代劇の『水戸黄門』なども手がけられた、脚本家の伊上勝さんのことですね。

「そしたら伊上さんも、『うん、やってみようか』ってね。それで出てきたアイデアをまとめて渡辺さんに見せると、『石ノ森さんとこ行け』って」

――石ノ森先生と知り合われたのは、どのような経緯だったんでしょう?

「その半年ぐらい前にね、講談社の漫画賞のパーティーっていうのがあって、渡辺さんと僕が行ってね……」

――週刊少年マガジンの編集長が3代目の内田勝さんだったころのことですね。

「内田編集長から石ノ森章太郎先生を紹介されて、名刺交換してね。僕はだいたい、漫画ファンだし石ノ森ファンだから、単純に喜んで……(笑)」

――そこから、お付き合いが始まるわけですね。

「石ノ森章太郎先生のマネージャーの加藤昇さんが、『従来、権利は原作者が100%でしたが、これを原作者と制作会社と局で分け合いましょう』と渡辺さんに持ちかけててね、『次にチャンスがあったら、石ノ森のほうにまわしてください』という話があったんだね」

――いわゆるマーチャンダイジングですね。

「当然のように渡辺さんは、『石ノ森さんとこ行け』って言うでしょ。僕は憧れの石ノ森先生だから、単純に『嬉しい』と(笑)」

――結果として、『仮面ライダー』のヒットによって、関係者が潤った……。

「『柔道一直線』なんて、あんなにヒットしたのにね、儲かったのはスポーツ用品メーカーだけで、鉄ゲタが売れに売れた、なんてね(笑)」

――大きな違いですね。

「だから僕は、ホントにありがたかった。加藤さんが知恵を貸してくれてね。あそこで『仮面ライダー』がなかったら、僕もどうなってたか分からないからね(笑)」

――『仮面ライダー』もそうですし、さらにその後、数多くの作品もおやりになれたことで、平山さんだけでなく、同じ東映のスタッフの方々も仕事を失わずにすんだわけですね。

「ホント救われたよね。石ノ森先生のおかげだね(笑)」