――最初、吉田竜夫さんの、『あのリアリティのある絵を動かすのは大変だ』というお気持ちがあったにもかかわらず、『マッハGoGoGo』の企画は、どんどんと進むわけですよね。そういう中でご自身の中で変化した部分というのは、おありでしたか。

「そうですね、実は僕もああいうリアルな絵というのは、どっちかというと苦手だったんですよ。『オレも漫画家なのに、なぜ人の漫画を真似しなきゃいけないんだ』って考えがありましてね。アニメにしろ、手塚先生が主流だというのがやっぱりどっかにありますから、『どうも抵抗のある絵だなあ』と思ってね。『これと付き合っていかなきゃいけないんだなあ』と思って困ってたんです。ところがある日、『待てよ、オレはもう漫画家じゃなくて、映画でいえば監督さんなんだと。そういう人は、物を動かして、役者さんを使ってね、こう動かしてくれとか、こういう情景のところを走らせるとか、そういうことを考える人が監督さんであり、演出家なんだな』といういうことが分かったんですね」

――きっかけ、というものですね。

「そうなったら吹っ切れましてね。それで映画として作ろうと。そうしたら、どんなキャラクターがきても、それを料理して効果的に観ている人に伝える――それが仕事なんだな、ということが分かって、ホントにやりやすくなりました。それでキャラクター見ると魅力的なんですよ。立場を漫画家から演出家に移すだけで違ってくるんです。やっとそこに気がついたんですね。その前は、脚本も人が書いたのは気にくわなくて、読んだ途端に評論家になっちゃって直すんですよ。直すというかオレならこうする、というのを絵コンテで作っちゃって。で、ライターさんから文句を言われるとかね。そんな繰り返し。自分のほうがいいと思ってたんですよ。なまじ、作家魂みたいなのがありましたから」

――資料によりますと、この作品で笹川さんは総監督ということになってますけれども……。

「それはですね、あの頃、まだ組織が確立されてなかったんですよ。それで、鳥海尽三さんが部長の文芸部でシナリオができ上がってくると、演出部では君が空いてるからっていうんで、各演出っていいますか、絵コンテ描く人に渡されるんです。『じゃあ、今度は僕がやるよ』とか。だから便宜上、そういう総監督 笹川ってなってるのもあるかもしれませんけど、ホントはそうじゃないんですよね。『マッハ~』は4人ぐらい演出家がいました」

――ほかには、九里一平さんとか。

「ええ、九里一平さんや私を含めて、あと何人かね。その人たちが交代で」

――すると、絵コンテもお描きになるし、原画もお描きになるし、いろんなことをおやりになっていた。

「ええ、そうですね。原画も描きますし」

――その中で、なにか自分で工夫した、というようなことはおありですか?

「例えば、自分が担当したエピソードで、第7話・第8話の『マンモスカーの挑戦(前編・後編)』ですね。マンモスカーっつってですね、汽車が連結してるようなでかい車が出てくるんですけど、それが金塊を運ぶんですよ。それを阻止する話なんですけど、あれ、音もやっぱりよかったと思うんですけどね。ほえまくって走ってますからね」

――なんか、象がほえるような効果音で……。

「はい、そうです。だからアクションあり、スピード感あり。今観ても、そんなに古いっていう感じはしないと思うんですね。実はスピード感を出すのはつらかったんですけど……出ないんですよね。背景をいくら速く引っ張っても、速く見えないんですよ。それからヘルメットのテカリとかね、ああいうのもみんな手で作ってます。今でいう3Dのああいうのじゃないですから、全部手作りですし。自動車のテカリやフロントガラスの感じとかは、全部ブラシをかけてセル一枚一枚仕上げてます。そういうことも踏まえてご覧になると、『ああ、いい。かえってセルアニメのほうがいい』なんて感じが起きてくるんじゃないですかね。まあ、確かに今のデジタルの映像もカチッとしてますけど、カチッとできすぎるんです。きれいにね。ですから、結構セルアニメも楽しいんじゃないかと思うんですよ」

――自動車レースものということなんですが、当時、スタッフの中に、特に車にお詳しい方はおられましたか。

「実は演出家、誰も運転できなかったんですよ」

エンディングのラストカット。レギュラーキャラクターとマッハ号
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