――いわゆるフルタイムの、つきっきりでアシストするアシスタントとしては、第1号?

「第1号なんです。僕が行ったときには、ほかのアシスタントの方もおられましたけど、みんな臨時なんですよ」

――そしてアシスタントを経て、やがてデビューされて、連載をお持ちになりますね。

「はい。それで漫画家としてやっていけるかなあ、という矢先に、だんだん月刊誌が廃刊になってくる時期があったんですよ。例えば、講談社の『少年クラブ』『たのしい一年生』とか。描くところがなくなるっていうのが、一番の恐怖でしたね」

――ここまでは、漫画家としてのエピソードをうかがってきたですが、その次にアニメの道に進むきっかけとなる出会いというのがあるわけですね。

「それはですね、編集の方の紹介で『吉田竜夫さんて人が近所にいるから、行ってみませんか』と言われて、ついて行って。で、吉田先生に会うんですね」

――虫プロさんの『鉄腕アトム』の絵コンテをお描きになったというのも、その頃ですか?

「ええ、虫プロさんがハードなスケジュールでね。(絵コンテを)作ってますね。で、とにかく絵が描ける人なら誰でも連れてこい、みたいなことだったみたいで。教えてもらって、2、3本絵コンテを描きましたかね。それで『ああ、アニメって結構おもしろいな』って思いまして、吉田さんに『アニメっておもしろいですよ』と」

――吉田竜夫さんは、そのお話をどう受けとめていらしたんでしょうか?

「吉田さんもやっぱり、雑誌漫画作家の生活の苦しさってものを味わってらっしゃいますから。つらいんですよね。朝も昼も夜もなく、徹夜徹夜で描いてますから、なんとかこれを打破したいみたいな、そういう時期ではなかったかと思うんですけど」

――そこへ、ちょうど話が舞い込んできたわけですね。

「ええ。『やろうやろう』と言ったって、やれないわけですから。そこに昔の東映動画さん――今の東映アニメーションさんの方からですね、『一緒にアニメ作りませんか』と。タツノコのほうで原作、キャラクター、絵コンテくらいまでやって、それ以後は東映動画さん側が、というお話で。それで『チャンスだ』『やろう』ということになってね。私たちも、東映動画さんの養成所に入れてもらって、3カ月間勉強したんですよね。

――ところが、そのお話が決裂してしまう。

「決裂しちゃうんです。権利の問題で揉めてたんですね。それで『どうするか』ってことですよ(笑)」

――それで、どうなさったんですか?

「吉田さんが、まだ雑木林・山林だったところを買って、プレハブでスタジオを作ったんですよ。『ここで製作しよう』ってね。そこで人を募集して、さらにまた一年くらいかかるんですけど。フィルムがなきゃ、セールスもできない。じゃあ、15分ぐらいのパイロットフィルムを作ろうということで、シロウトの人たちを養成して作り始めるんです。知らない怖さ(笑)。やれると思ったんですからね。それでできたのが『宇宙エース』なんです」