小栗旬主演の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)の第25回「天が望んだ男」(26日放送)のラストシーンは、源頼朝(大泉洋)が落馬するという衝撃的なシーンが描かれた。いよいよ頼朝が絶命か!? と息を呑んだ視聴者が多かったはず。本作の脚本を手掛ける三谷幸喜氏は、諸説ある頼朝の死をどう描こうとしているのか、三谷氏にインタビューし、その制作秘話に迫った。

  • 『鎌倉殿の13人』源頼朝役の大泉洋

頼朝の死については歴史書『吾妻鏡』の落馬説が有名だが、暗殺説などもまことしやかにささやかれてきた中で、稀代のストーリーテラーである三谷氏がどう彼の人生を終わらせるのかに熱い視線が注がれている。第25回では、冒頭から自分が死んでいる夢を見たり、餅をのどにつまらせて死にそうになったりと、死期が近いことを暗示させるようなシーンが描かれたあと、落馬のシーンを迎えた。

三谷氏は「頼朝の死についてはいろんな説がありますが、僕としてはこれだけ長い時間、頼朝に寄り添ってきて、彼なりのつらさや孤独みたいなものを十分に感じてきたので、頼朝についてはちゃんと死なせてあげたいと思いました。彼ほど寂しい男はいなかったんじゃないかなといろいろと考えていくうちに、静かに死なせてあげたいと思ったのです」と、頼朝への思いを口に。

「暗殺説もありますが、誰かに殺されるとなると、そこに殺す側のドラマも生まれてきます。そうではなく、あくまでも頼朝側のドラマとして完結させてあげたい」という結論に達したようだ。

「僕の中で25回は、静かな回というイメージがあります。これまでの回に比べると、厳かな1日という感じでした。また、演出の吉田(照幸)さんもきちんとそこを汲み取ってくださり、すごく厳かな雰囲気になっていたし、大泉洋さんも一生懸命やってくれました。巴御前(秋元才加)とのシーンも、自然と涙が出てきたと話していましたが、僕はあんなに頼朝が泣くとは思っていなかった。それはきっと、これまで彼が頼朝を演じてきたことの積み重ねによる涙だったと思っています」

頼朝が落馬するシーンの前にも、“死亡フラグ”が感じとれるシーンがあった。頼朝の馬を引く家人の安達盛長(野添義弘)と頼朝が他愛のない会話を交わすほのぼのとした一幕である。盛長といえば、頼朝の流人時代からずっと仕えてきた家人で、頼朝が心を許せる数少ない存在の1人だ。2人きりの場だったせいか、盛長は頼朝がこの日ずっと避けてきた昔話をうっかり始めようとしてしまうなど、実に穏やかなシーンだったが、まさに嵐の前の静けさのようだった。

「ちょっともったいなかったなと思ったのは、これまで盛長が頼朝の馬を引いて2人で散歩するようなシーンを描いてなかったことです。今回、盛長が『昔を思い出します』という台詞を言いますし、視聴者の方もそういうシーンがあったんだと脳内変換される方がいるかもしれないけど、そこはなかったので自分の中でも心残りです」

そして、2人が森を歩いている途中で、頼朝が落馬をすることに。その際にキーンという音が流れ、北条義時(小栗)や政子(小池栄子)をはじめ、様々な人が何かを察知したような表情を見せるというシーンが繰り広げられた。

「あの音は生理的な音で、耳鳴りや頭痛というか、そういった病気の現象の1つとして僕は書きましたが、吉田さんの解釈で鈴の音にしてくださり、それがみんなにも聞こえるようにしてくださったのかなと」

同シーンについて三谷氏は、高校生時代に観て感銘を受けたという1979年放送の大河ドラマ『草燃える』を引き合いに出してこう述べた。

「頼朝が馬から落ちた回をよく覚えています。当時は自分が脚本家になることはもちろん、よもや大河ドラマで同じ時代の話を書くなんて想像もしてなかったのですが、そのシーンを観た時、僕だったらこういう風にするなと勝手に思ったんです。僕は『草燃える』にすごくハマり、それぞれの登場人物に感情移入して観ていたので、頼朝が倒れた瞬間に、他の人たちは何をしていたんだろう? と考えてしまいまして。もちろんいろんな描き方があると思いますが、自分自身はそう思ったのです」

そこで今回は、頼朝が落馬したと同時に、頼朝と関わった人たちが何かを感じとったような描写を入れ込んだ。

「僕が書いたイメージは、それぞれの顔がパッパッと一瞬で切り替わっていくようなイメージでしたが、演出の吉田さんは僕の思いをより強調してくださり、1人ずつじっくり時間をかけて描いてくださいました。そこは意外でしたが、その時に僕が40数年前に見たかったシーンはこれなんだと感じたので、吉田さんにはとても感謝しています」と感無量の様子。

落馬した頼朝に駆け寄った盛長は、動揺のあまりそれまで「鎌倉殿」と呼んでいた頼朝のことを、昔の呼称である「佐殿(すけどの)」と呼び叫ぶ。「安達盛長は最初から頼朝に仕えている家来で、ずっと頼朝のことを慕っていたので、彼にとっては生涯“佐殿”だったなと思い、あの台詞にさせてもらいました」と三谷氏は説明した。